日本企業が直面する環境変化はかつてないスピードで進行しています。少子高齢化による人材不足、グローバル市場での競争激化、テクノロジーの進化によるビジネスモデルの陳腐化。こうした構造的課題の中で、既存事業の効率化や改善だけでは持続的な成長を維持することが難しくなっています。その結果、多くの企業が新規事業開発を「生き残りの戦略」として位置づけ始めています。
しかし、現場では「アイデアは出るが形にならない」「PoCで止まってしまう」といった課題が頻発しています。これは、単に創造性や技術力の問題ではなく、課題発見から検証、組織文化に至るまでの全プロセスを体系化できていないことが主な原因です。
本記事では、早稲田大学・入山章栄教授が提唱する「両利きの経営」を理論的背景としながら、アイディエーションからPoC・MVPを経て事業化へ至るまでの実践的フレームワークを解説します。さらに、富士フイルムやHonda、SmartHRなどの成功事例を交えつつ、「再現性のある新規事業開発」の型を提示します。経営者・事業責任者・新規事業担当者にとって、次の一手を導く実践書となる内容です。
変化の時代に求められる「新規事業開発の型」とは

現代の日本企業を取り巻く環境は、少子高齢化、デジタル化の加速、エネルギーコストの上昇など、これまでにない構造的変化を迎えています。これらの要因は単なる経済の波ではなく、企業経営の前提そのものを変える「構造転換」であり、既存事業の延長では立ち行かなくなる時代に入っています。実際、経済産業省の調査では、国内企業の約6割が「5年以内に既存事業だけでは成長が見込めない」と回答しており、新規事業の必要性が全業種で共通の課題となっています。
このような環境下で注目されるのが、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄教授が提唱する「両利きの経営」という考え方です。これは、既存事業を深化・改善させる「知の深化」と、新たな事業領域を探索する「知の探索」を同時に追求する経営アプローチを指します。日本企業は長年にわたり「知の深化」では世界有数の競争力を発揮してきましたが、急速な市場変化の中では、未知の領域に挑み新しい価値を創出する“探索力”こそが生存条件になりつつあります。
ただし、「探索」を成功させるには感覚や経験に頼るだけでは不十分です。再現性のあるプロセス=“型”が必要です。優れた企業ほど、アイディア発想から仮説検証、組織体制構築までを明確なフレームワークに基づいて進めています。たとえば、富士フイルムが写真フィルム事業から化粧品や医療分野へ転換できた背景には、「自社技術を他領域の顧客課題に応用する」という体系的な探索プロセスがありました。
一方で、多くの企業では「新しいことに挑戦しよう」と号令をかけても、現場で具体的な進め方が分からず立ち止まるケースが少なくありません。感覚的な挑戦ではなく、理論と実践が融合した“新規事業開発の型”を組織として共有することが、成功企業に共通する特徴です。
新規事業開発とは、単なるアイデア勝負ではなく、組織的学習の積み重ねによって進化する経営技術です。今まさに求められているのは、個人の閃きではなく、全社的に再現できる「仕組み化された探索力」なのです。
顧客起点で発想する:デザイン思考とジョブ理論の実践
新規事業開発の出発点は「何を作るか」ではなく、「誰の、どんな課題を解くか」です。多くの失敗は、自社技術を中心に考えるプロダクトアウト型発想に陥ることに起因します。そこで有効なのが、顧客を中心に据える思考法であるデザイン思考とジョブ理論です。
デザイン思考:共感から始まる課題発見
デザイン思考は、スタンフォード大学d.schoolで体系化された人間中心設計のアプローチで、「共感」「定義」「発想」「試作」「検証」の5ステップで構成されます。特に初期の「共感」と「問題定義」は新規事業の成功を左右します。
ロート製薬では、自社ECサイトの再構築時にデザイン思考を導入し、顧客インタビューを基に感情の起伏を可視化したカスタマージャーニーマップを作成しました。その結果、従来の「企業が伝えたい情報」から「顧客が体験したい価値」へと発想を転換し、顧客満足度を大幅に向上させています。
ジョブ理論:顧客が本当に片付けたい仕事に着目する
一方、ジョブ理論(Jobs-to-be-Done)は、ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が提唱した概念で、「顧客は製品を買うのではなく、ある目的(ジョブ)を達成するためにそれを“雇っている”」と考えます。
たとえば「ミルクシェイクの事例」では、顧客が求めていたのは飲み物そのものではなく、「退屈な通勤時間を楽しく、かつ腹持ち良く過ごす手段」でした。このように、顧客が片付けたいジョブを見極めることで、真の市場機会を発見できます。
日本企業でも、富士フイルムが写真フィルム技術を「肌の老化を防ぎたい」というジョブに応用して化粧品事業に成功したように、ジョブ理論の実践は成果を上げています。
デザイン思考とジョブ理論の融合が生むシナジー
両者を統合すると、デザイン思考が「観察と共感」で課題を発見するプロセスを、ジョブ理論が「顧客が本当に達成したい目的」を見極める分析レンズを提供します。顧客を“理解する”だけでなく、“解釈する”力を持つことが、新規事業開発の差別化要因になるのです。
思考法 | 主な目的 | アプローチ | 成果物 |
---|---|---|---|
デザイン思考 | 潜在的課題の発見 | 顧客観察と共感 | 問題定義とアイデア創出 |
ジョブ理論 | 真のニーズの特定 | 行動と目的の分析 | 価値提案の設計 |
この二つを組み合わせ、顧客の「行動」ではなく「意図」に焦点を当てることが、イノベーションの起点となります。
アイディエーションの精度を高める調査・分析手法

新規事業のアイディエーションを成功させるためには、単なるブレインストーミングではなく、データと洞察に基づいた分析的なアプローチが欠かせません。アイディアの出発点となる「課題の特定」と「市場機会の抽出」を高精度に行うことで、事業の成功確率は飛躍的に高まります。ここでは、企業が実際に用いている代表的な分析手法と活用事例を紹介します。
定量調査と定性調査の使い分け
新規事業の企画段階では、「顧客が何を求めているか」を多面的に理解する必要があります。そのために活用されるのが、定量調査(量的データ)と定性調査(質的データ)の組み合わせです。
調査手法 | 主な目的 | 具体例 | 得られる成果 |
---|---|---|---|
定量調査 | 市場規模・購買意欲の把握 | アンケート・アクセス解析 | 数値による傾向分析 |
定性調査 | 顧客心理・課題の深掘り | インタビュー・観察調査 | 潜在ニーズの発見 |
特に、顧客の感情・文脈に基づく定性情報は、イノベーションの源泉になります。例えば、P&Gは新製品開発の際に「消費者の生活空間に入り、日常の行動を観察するエスノグラフィ調査」を実施し、顧客自身が言語化できない課題を発見しています。
アナリティクスとインサイトの融合
デジタル時代のアイディエーションでは、ビッグデータ分析を活用して市場の兆しを捉えることも重要です。GoogleトレンドやSNS分析ツールを使えば、特定キーワードの検索ボリューム変化から「次に来る需要」を予測できます。
さらに、AIによるテキストマイニングを用いれば、口コミサイトやSNS投稿から顧客の不満や未充足ニーズを自動抽出することも可能です。これらのデータを「数字で終わらせず、文脈として読み解く力」が求められます。
ハーバード・ビジネス・レビューでも「データから洞察を得る企業は、単なる分析会社ではなく“意味づけを行う組織”へ進化している」と指摘しています。
顧客起点の仮説検証プロセス
調査で得たデータは、仮説立案と検証を繰り返す中で意味を持ちます。IDEOのデザイン思考でも、初期段階で「顧客の行動から仮説を構築し、小さな実験で確かめる」ことが強調されています。
また、最近ではリーンリサーチという考え方も注目されています。これは、仮説検証を最小限のコストで素早く行うリサーチ手法で、PoC(概念実証)前の段階での有効性を確かめるのに適しています。
新規事業の成否は、アイディアの数よりも「検証の質」で決まります。数字と感情、論理と共感を両立させた調査・分析こそが、次の時代のアイディエーションを支える基盤となります。
検証フェーズの羅針盤:PoC・プロトタイプ・MVPの違いと活用順序
アイディエーションで得られた仮説を、どのように現実へと近づけていくか。ここで重要になるのが、PoC(概念実証)、プロトタイプ、MVP(最小実用製品)の3ステップです。これらはしばしば混同されますが、目的とアウトプットは明確に異なります。正しく理解し、戦略的に使い分けることが、開発コストを最小化し成功確率を最大化する鍵となります。
3つの概念の違いを理解する
段階 | 検証の目的 | 主な問い | 対象者 | アウトプット |
---|---|---|---|---|
PoC(概念実証) | 技術的な実現性 | 作れるか? | 開発チーム・経営層 | 実験データ・レポート |
プロトタイプ | UX/UIの評価 | 使いやすいか? | デザイナー・ユーザー | モックアップ・デザイン試作 |
MVP(実用最小製品) | 市場ニーズ・収益性 | 売れるか? | 初期顧客(アーリーアダプター) | 実際のβ版製品 |
このように、PoCは「技術の可能性」、プロトタイプは「使いやすさ」、MVPは「市場性」を検証するための段階です。
順序を誤ると失敗する理由
よくある失敗は、PoCを飛ばしていきなりMVPを開発してしまうケースです。技術的リスクを無視して本格開発に入ると、途中で実現不可能な課題に直面し、プロジェクトが頓挫します。逆に、PoCばかり繰り返してしまうと「PoC疲れ」に陥り、事業化に進めません。
理想的な流れは、PoC → プロトタイプ → MVPの順に、検証対象を「技術」から「体験」へ、そして「市場」へと移していくことです。
成功企業に学ぶ実践例
たとえば、ソニーのAIカメラ事業では、最初にPoCで被写体検知アルゴリズムの精度を確認し、次にユーザーが直感的に使えるプロトタイプを制作。最終的にクラウド接続型カメラをMVPとして市場に投入しました。この段階的アプローチにより、開発リスクを抑えながら高精度な製品化に成功しました。
スタートアップのSmartHRも同様に、最初にLP(ランディングページ)型MVPを使い、3日間で市場の反応を測定。100件以上の登録が集まったことで、需要の確証を得て本格開発に進みました。
フレームワークとしての活用視点
PoC・プロトタイプ・MVPを単なる開発手順としてではなく、「不確実性を段階的に解消するフレームワーク」として捉えることが重要です。
PoCでは技術リスクを、プロトタイプではUXリスクを、MVPでは市場リスクを順に解消する。この一貫した思考が、新規事業の成功確率を高める羅針盤となります。
データに基づく検証を重ね、学びを次の段階に反映するプロセスが整っている企業ほど、最終的に市場での成功率が高いことが、数多くの研究からも明らかになっています。
成功するPoCの設計と実行:目的設定からKPI設計まで

PoC(Proof of Concept:概念実証)は、新規事業開発において「アイデアを机上の議論から実践へと移すための最初の実験」です。ここでの設計が曖昧だと、後続のプロトタイプやMVPの開発に支障をきたし、組織内で「PoC疲れ」が発生します。重要なのは、PoCを単なる技術テストではなく、「仮説検証の場」として位置づけ、明確な目的と評価基準を持って実行することです。
PoCの目的を明確にする
PoCの最初のステップは、「何を検証したいのか」を明確に定義することです。多くの失敗例では、目的が「なんとなく技術を試したい」「とりあえず新しいことをやってみたい」といった抽象的なものに留まっています。これでは、成果の評価が曖昧になり、意思決定ができません。
PoCの目的は、以下の3つの観点で整理すると明確になります。
検証観点 | 主な目的 | 例 |
---|---|---|
技術的検証 | 実現可能性の確認 | AIモデルの精度検証、センサー通信の安定性 |
ビジネス検証 | 顧客価値と収益性の見極め | 想定課題が実在するか、課金意欲があるか |
オペレーション検証 | 導入・運用時の課題把握 | 現場での負荷や工数を試算 |
目的を1つに絞り込み、過度に欲張らないことが成功のポイントです。
KPI(検証指標)の設計
PoCの評価には、主観ではなく定量的なKPI(Key Performance Indicator)が欠かせません。例えばAIプロジェクトの場合、「精度90%以上」「誤検知率5%以下」といった数値基準を設けることで、判断がブレません。
また、ビジネスモデル系のPoCであれば、「顧客インタビュー30件」「プロトタイプ申込率15%以上」など、行動データを基にしたKPIが有効です。これらの指標は、事前に経営層と合意形成を行い、“成功の定義”を共有しておくことが重要です。
実行と学習のループを組み込む
PoCは「やって終わり」ではなく、「仮説→実験→学習→再設計」というループを設計段階から組み込むべきです。スタンフォード大学の研究では、仮説検証を3回以上繰り返したプロジェクトは、1回のみの検証に比べて事業化確率が2.8倍高いと報告されています。
トヨタの新規事業部門Woven by Toyotaでも、1つのアイデアを短期間で複数回検証する「PoCスプリント方式」を導入し、学びの速度を飛躍的に高めています。
PoCを成功させる企業の共通点は、「実験の設計力」と「意思決定のスピード」です。つまり、PoCとは単なる検証ではなく、次のステージに進むための“判断装置”なのです。
「PoC疲れ」を防ぐためのマネジメント戦略
多くの企業が新規事業に取り組む中で直面しているのが、「PoC疲れ」と呼ばれる現象です。これは、PoCを何度も繰り返しても事業化に進まず、社内リソースとモチベーションが消耗する状態を指します。特に大企業では、組織構造や意思決定の遅さが原因で、せっかくの成果が埋もれてしまうことも少なくありません。
この課題を克服するためには、PoCの目的・評価・推進体制を見直す「PoCマネジメント戦略」が必要です。
PoC疲れが起こる3つの要因
要因 | 内容 | 結果 |
---|---|---|
目的の不明確化 | PoCのゴールが共有されていない | 成果判断ができず、次に進まない |
評価基準の曖昧さ | KPIがない、または経営層が納得していない | 承認が遅れ、リソース浪費 |
組織のサイロ化 | 部署間の連携不足 | ナレッジが分散し、再現性が失われる |
このような構造的問題は、PoCを単発の実験に終わらせず、「組織的学習プロセス」として再設計することで防ぐことができます。
マネジメント層の関与と意思決定スピード
経営層がPoCの早期段階から関与することは、PoC疲れを防ぐ最大の要素です。Boston Consulting Groupの調査によると、経営層が初期から伴走した新規事業は、そうでない場合に比べて事業化率が3倍高いとされています。
また、成果が出たPoCをすぐに次の段階へ進めるための「ゲートレビュー制度」を設けると、判断のスピードが飛躍的に向上します。日立製作所では、技術部門と事業部門が共同でレビューを行う仕組みを導入し、PoCからMVPへの移行率を2倍に高めました。
ナレッジマネジメントによる学習循環
PoCで得た学びを組織に蓄積する仕組みも欠かせません。実施したPoCの目的・結果・失敗要因を一元管理する「PoCナレッジデータベース」を構築することで、再現性のある学びが生まれます。
NECでは、各事業部が実施したPoCを社内ポータルで共有し、他部署がその知見を応用できる仕組みを導入。これにより、同じ失敗の繰り返しが減少し、プロジェクト全体のスループットが向上しています。
モチベーションと成果の可視化
最後に重要なのは、PoCチームの士気を保つ仕組みです。PoCの結果が事業化に直結しなくても、「得られた知見」や「社内技術の進化」を定量的に評価することで、挑戦を称える文化が育ちます。
PoC疲れは単なるリソース問題ではなく、「学びを成果と捉えられる組織文化」が欠けていることが原因です。PoCの意義を再定義し、成果を見える化することが、新規事業を持続的に推進するための第一歩となります。
MVPによる市場検証と学び:国内外の成功事例に学ぶ
PoCを経て技術的・運用的な検証が完了した後は、実際に市場へ出して顧客の反応を確かめる段階、すなわちMVP(Minimum Viable Product:実用最小限の製品)フェーズに入ります。MVPは、完成度の高い製品を目指すのではなく、最小限の機能で顧客の反応を実際に観測し、仮説を検証するための仕組みです。ここで得られる定量・定性データが、事業の方向性を決定づける基盤になります。
MVPの目的と役割
MVPの主な目的は、「顧客が本当にその価値を求めているか」を明らかにすることです。製品を完璧に仕上げる前に、ターゲット顧客に試してもらい、課金意欲・利用継続率・口コミ拡散などの行動データから仮説を検証することで、無駄な投資を防げます。
項目 | 内容 | 検証方法 |
---|---|---|
提供価値 | 顧客が何を得たいか | アンケート、インタビュー |
利用意欲 | 実際に使いたいか | トライアル登録数、アクセス分析 |
支払い意欲 | 価格設定は適正か | 仮販売ページ、事前決済テスト |
継続意向 | 継続的に利用されるか | リテンション率、再訪率 |
スタートアップ界では「MVPなしでの事業開発は航海図のない航海」といわれるほど、MVPの設計は成功の分水嶺です。
国内外の成功事例
Dropboxは、最初からファイル共有サービスを開発したわけではありません。最小限のデモ動画を公開し、ユーザーの反応を観察することでニーズを確信。その後の投資判断につなげました。わずか1本の動画から数万人の登録が集まり、「MVP=完成品ではなく、学びを得る装置」という考え方を世界に広めました。
国内ではSmartHRが好例です。初期段階ではサービスを完全に作り込まず、ランディングページと問い合わせフォームだけを公開。3日間で100件以上の反応を得たことで、社会保険手続きのDX化に対する潜在需要を可視化しました。このように、仮説を素早く検証するスピードこそがMVPの価値です。
学びを次のステージに生かす
MVPで得たデータは、単なる結果ではなく「学習の素材」です。たとえば、利用者が想定外の場面でサービスを使っていた場合、それは新しい市場機会の兆しかもしれません。Slackももともとはゲーム開発チームの内部ツールとして生まれましたが、外部の企業が利用を希望したことで方向転換し、現在の成功を収めました。
このように、MVPを「市場と対話するための実験」と捉え、顧客行動から洞察を得る仕組みを持つ企業ほど、継続的なイノベーションに成功しています。
MVPは「最小限の製品」ではなく、「最大限の学びを得る実験」。その意識転換が、事業の成長スピードを決定します。
イノベーションを支える組織文化と心理的安全性
新規事業の成否は、アイデアや技術よりも「人と文化」に左右されます。どれほど優れた戦略があっても、挑戦を恐れる組織ではイノベーションは生まれません。ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授が提唱した「心理的安全性(Psychological Safety)」の概念は、まさにその核心を突いています。
心理的安全性とは、メンバーが恐れずに意見を述べたり、失敗から学んだりできる職場環境を指します。Googleの社内調査「Project Aristotle」でも、チームの生産性を左右する最大の要因が心理的安全性であることが明らかになりました。
心理的安全性がイノベーションを促す理由
新規事業の現場では、不確実性の中で仮説を立て、検証を重ねるプロセスが続きます。このとき、失敗を恐れる文化があると、挑戦が萎縮し、学びが止まります。逆に、失敗を共有し合う環境があれば、試行錯誤が加速し、知識の相互作用が起こるのです。
組織文化の状態 | 特徴 | 結果 |
---|---|---|
恐れの文化 | ミスを隠す、発言が減る | 革新が停滞する |
学習の文化 | 失敗を分析し、共有する | 知の再利用と新発想が生まれる |
たとえばサントリーでは、新規事業開発プログラム「SUNTORY+」において、失敗した案件も「次に生かすための資産」として社内報で共有しています。この取り組みにより、プロジェクト間の学習循環が生まれ、PoCから事業化に進む確率が大幅に向上しました。
リーダーシップが文化を形づくる
心理的安全性を醸成する鍵は、リーダーの姿勢です。トヨタの元副社長である豊田章男氏は「リーダーは答えを持つ人ではなく、問いをつくる人であれ」と述べています。トップが「失敗してもいい」と言葉にすることで、挑戦が組織の規範となります。
また、日立製作所では上司が週1回メンバーと1on1ミーティングを行い、「最近の気づき」「試してみたいアイデア」を共有する仕組みを導入。社員の発言数と提案件数が前年比で1.7倍に増えています。
文化が継続的イノベーションを生む
新規事業は一度の成功で終わりではなく、継続的な挑戦が必要です。そのためには、人が自発的に動く組織風土が不可欠です。マッキンゼーの調査によると、心理的安全性が高いチームは低いチームに比べ、イノベーション成功率が2.5倍高いとされています。
心理的安全性の高い組織では、失敗が「恐怖」ではなく「学び」として受け止められます。そうした文化が根づいた企業こそが、環境変化の波を乗り越え、次の時代を切り拓くのです。
社内ベンチャーとCVC:大企業が持続的に挑戦するための仕組み
大企業が新規事業を継続的に生み出すためには、単発のプロジェクトではなく、挑戦を仕組み化することが欠かせません。その中核となるのが「社内ベンチャー制度」と「CVC(コーポレート・ベンチャー・キャピタル)」です。両者はアプローチが異なりますが、組織の外と内をつなぐ“イノベーションのエンジン”として機能する点で共通しています。
社内ベンチャー制度の意義と成功条件
社内ベンチャー制度は、社員が自らアイデアを提案し、事業化を目指す仕組みです。企業が持つリソースを活かしつつ、スタートアップのようなスピード感で新規事業を進められるのが特徴です。
経済産業省の調査によると、社内ベンチャー制度を導入している企業の約7割が「新たな収益源の創出」よりも「イノベーション人材の育成」を目的に挙げています。つまり、人材育成と企業文化の変革を同時に促す装置としての側面が強いのです。
成功する社内ベンチャー制度の要素 | 内容 |
---|---|
明確な選抜基準 | 提案内容の新規性と実行可能性を重視 |
経営層の支援体制 | メンター制度・予算裁量を付与 |
失敗許容文化 | 撤退も評価対象に含める |
外部連携 | スタートアップや大学との協働 |
たとえばパナソニックの「ゲームチェンジャー・カタパルト」は、社内起業家を社外の起業支援機関やデザイナーと連携させるプログラムを導入し、家電領域を超えた新規事業を次々と創出しています。
CVCが果たす役割と相乗効果
CVCは、企業が自社の戦略的成長を目的としてスタートアップに出資する仕組みです。金融的リターンだけでなく、技術提携や事業シナジーの獲得を狙う「戦略投資」が特徴です。
日本では、トヨタ、KDDI、ソニー、NTTドコモなどがCVCを積極展開しています。特にトヨタ・ベンチャーズは、脱炭素・AI・モビリティなどの分野で世界中のスタートアップと協業し、技術獲得と事業モデル変革を加速させています。
CVCのメリット | 内容 |
---|---|
外部知の獲得 | 自社にない技術・スピードを吸収 |
将来市場の見極め | トレンドを早期に把握 |
人材交流 | 社員の出向・プロジェクト参画 |
事業化連携 | 投資先との共同開発やPoC実施 |
社内ベンチャーとCVCを両輪で運用する企業も増えています。たとえばリクルートは、社内発アイデアの育成と同時にCVCを通じた外部連携を行い、「内発的イノベーション」と「外部連携イノベーション」を統合的に推進しています。
このように、社内ベンチャーとCVCは単なる投資や制度ではなく、「変化を受け入れ、挑戦を継続するための組織構造」として機能しています。挑戦の仕組みが根づくことで、企業は不確実な時代においても持続的に成長できるのです。
戦略ストーリーとしての新規事業:持続的成功へのロードマップ
新規事業の成功は、一度のヒットでは終わりません。大切なのは、「戦略ストーリーとしての一貫性」を持って事業を育て続けることです。ここで言う戦略ストーリーとは、「なぜこの事業をやるのか」「どのように価値を広げていくのか」という企業の物語です。
戦略ストーリーが重要な理由
経営学者の楠木建氏は、「戦略とはストーリーである」と定義しています。単なるKPIや戦術の積み重ねではなく、因果関係でつながった物語の構築こそが、持続的な競争優位を生むという考え方です。
多くの新規事業が失敗するのは、短期的な成果を重視しすぎ、長期的なビジョンが欠けているためです。成功している企業は、次の3つのステップで戦略ストーリーを描いています。
フェーズ | 主な目的 | 具体的アプローチ |
---|---|---|
1. 構想 | 事業の存在意義を定義 | 社会課題・顧客価値を起点にする |
2. 実証 | 仮説を市場で検証 | PoC・MVP・顧客共創 |
3. 拡張 | 持続的価値を構築 | 事業提携・データ活用・海外展開 |
成功企業に見る「物語としての成長」
スタートアップのメルカリは、「不要なモノの再流通を通じて個人が豊かに暮らす社会をつくる」という明確なストーリーを起点に成長しました。初期は個人間取引アプリというニッチ領域から始まりましたが、決済(メルペイ)や物流(メルロジ)などへ拡張し、ストーリーに一貫した形でエコシステムを拡大しています。
また、富士フイルムも「写真の会社から、健康とライフサイエンスの会社へ」という長期ビジョンを掲げ、コア技術を基盤に再成長を遂げました。このように、戦略ストーリーを軸に据えることで、企業は変化の中でも軸を失わずに進化できます。
ストーリーを社内外で共有する仕組み
戦略ストーリーを組織全体に浸透させるには、「語り」と「可視化」が重要です。サイボウズでは、社長自らが社内プレゼンを繰り返し、企業理念と新規事業の方向性を結びつけています。また、OKR(Objectives and Key Results)を活用して、全社員が自分の目標を会社の物語にリンクさせる取り組みを進めています。
ストーリーは経営者だけのものではなく、全社員が紡ぐ共同作業です。ひとりひとりが「この事業の物語に自分も関わっている」と感じられるとき、組織は真に動き出します。
戦略ストーリーを持つ企業は、短期の成果に一喜一憂せず、長期的な価値創造に集中できます。変化の時代だからこそ、数字だけでなく「語る力」を備えた企業が、市場から信頼と共感を勝ち取っていくのです。