日本のBtoB市場は、DXとSaaS化の波によってかつてないほどの変革期を迎えています。国内のBtoB SaaS市場は2028年度には約2兆9,000億円規模に達すると予測され、企業のデジタル投資は今後も拡大が続く見込みです。しかし、その一方で、サブスクリプション事業の9割以上が主要KPIを未達成に終わっているという調査結果も存在します。このギャップこそが、BtoB新規事業の本質的な難しさを物語っています。
成功するBtoB新規事業とは、優れた製品を開発することではなく、顧客にとっての価値を持続的に創出し、収益を安定的に生み出す「ビジネスモデル」をいかに設計できるかにかかっています。市場が飽和し、競合が乱立する今こそ、構造的な視点で事業を再定義する力が求められています。
本記事では、世界共通のフレームワークであるビジネスモデルキャンバスを軸に、BtoB特有の構造を分析します。さらに、キーエンス、Sansan、ビズリーチ、ラクスルといった日本を代表する成功企業の事例を紐解きながら、持続的な競争優位を築くための戦略的アプローチを体系的に解説します。
現代のBtoB市場環境と新規事業機会の拡大

市場の潮流
DXやクラウド、AIの実装が一気に進み、企業間取引はオンラインを前提とする時代に入りました。国内でもSaaSの浸透や業務のデジタル化が進展し、サプライチェーンや請求・与信などのバックオフィス領域まで再設計の対象になっています。結果として、購買の情報収集から比較検討、発注、運用までの接点が増え、BtoBの商流は可視化と自動化に向けて再編されています。
経営側の視点では、固定費の変動費化や意思決定の迅速化がテーマとなり、サブスクリプションやユースベース課金への受容度が高まりました。これにより、継続課金を核にした新規事業に追い風が吹く一方、解約率管理や活用定着といった運用面の難易度も上がっています。
さらに、法制度対応と脱炭素・人手不足といった構造課題が、業務の標準化・外部化需要を押し上げています。新規参入は、縦割り業務を横断する統合提案や、既存システムとの連携を前提にした拡張性の高い設計が鍵となります。
主要ドライバーと機会領域(抜粋)
- 法制度対応や監査要件の強化によるデジタル証跡・データ統合の需要
- 働き方の多様化に伴うリモート運用・セキュリティ強化の恒常需要
- サプライチェーン再構築に伴う可視化・最適化・需要予測ニーズの増大
指標の俯瞰テーブル
視点 | 現状の概況 | 根拠の種別 |
---|---|---|
BtoB取引のオンライン化 | 企業間の情報収集・比較・発注がオンラインへ移行 | 公的調査・産業統計 |
DX投資の継続 | 基幹・周辺業務のクラウド移行が加速 | 民間アナリスト |
SaaS採用の拡大 | 継続課金・利用量課金の採用が定着 | 産業レポート |
事業設計への含意
需要は拡大していますが、勝敗を分けるのは単発の機能優位ではなく、導入前後の成果可視化や既存環境との連携、継続利用を促す体験設計です。とりわけオンボーディングと定着支援を収益モデルと不可分に設計し、営業・マーケ・CSの一体運用で商談獲得から継続利用までを統合管理する体制が求められます。
なぜビジネスモデル設計が新規事業の命運を分けるのか
伸びる市場と高い未達率の同居
市場が拡大しても、新規事業の多くが主要KPIを満たせない現実があります。背景には、提供価値は理解されても運用で価値が毀損される、価格が価値と連動していない、導入後の成功設計が曖昧といった構造的な要因があります。重要なのは、製品をつくることではなく、価値創造・価値提供・価値獲得の循環を数値で回す設計です。
BtoBは意思決定者が多層で検討期間も長く、失注の機会損失が大きい領域です。初期から誰に・何を・いくらで・どうやって届けるかを、仮説検証で磨き込むことが不可欠になります。顧客の業務文脈に寄り添い、導入後の成果を定量で提示できるモデルほど解約率が下がり、累積で優位を築けます。
価格は便益と連動させ、利用量や成果に比例させると受容されやすくなります。固定料金にこだわるより、階層化や従量の組み合わせで価値の伸びを取り込む発想が有効です。
設計の骨子(フレームと指標)
- Value Creation:導入前の業務KPIとベースライン把握、導入後の効果仮説
- Value Delivery:チャネル別の獲得単価と商談化率、導入リードタイム短縮
- Value Capture:価格体系とディスカウント規律、回収期間と継続率の両立
ユニットエコノミクスの最小形
指標 | 目的 | 実務の要点 |
---|---|---|
LTV | 顧客の累積粗利 | 継続率とARPAを改善、アップセル導線を内蔵 |
CAC | 獲得コスト | チャネル別の配賦と勝ち筋集中、商談歩留まり管理 |
回収期間 | キャッシュ健全性 | 回収12か月以内を目安、年額前払いの設計 |
実装に落とす観点
- オンボーディングの標準手順化(成功の定義・初期価値到達までの里程標)
- 既存SaaSや基幹との連携テンプレート整備で導入負担を低減
- カスタマーサクセスを収益モデルと連動(階層別サポート、成果連動オプション)
ビジネスモデルは静的な計画書ではなく、顧客対話で更新される実装設計図です。獲得から定着、拡張までを一貫した数値で管理し、仮説を市場で検証し続ける企業が、結果としてPMFに収れんし、再現性のある成長を手にします。
BtoCとの本質的な違いから学ぶBtoBの構造的特徴

顧客と購買プロセスの根本的な違い
BtoBビジネスの顧客は法人や組織であり、BtoCが相手とする個人消費者とは本質的に異なります。BtoBでは、顧客が複数の部署や意思決定者で構成されており、購買プロセスが長期化しやすい特徴があります。
製品利用者・購買担当者・上長・経営層といった多層構造の意思決定フローが存在し、承認プロセスは数ヶ月から1年以上に及ぶケースもあります。一方で、BtoCでは感情的・直感的な判断で購入が行われ、決定までのスピードが圧倒的に速い傾向にあります。
この違いは、購買動機にも現れます。BtoCでは「欲しいから買う」「気分が上がるから買う」という感情的価値が中心ですが、BtoBではROI(投資対効果)や生産性向上、リスク回避など、経営上の合理性に基づく価値判断が重視されます。また、BtoBでは取引金額が高額になり、支払いも請求書ベースの後払いが一般的であるのに対し、BtoCは比較的低単価で即時決済が主流です。
BtoBとBtoCの構造比較表
観点 | BtoB(企業対企業) | BtoC(企業対消費者) |
---|---|---|
顧客 | 企業・組織 | 個人 |
意思決定者 | 多層(利用者・購買部門・経営層) | 個人本人 |
購買動機 | 経営効率・ROI・合理性 | 感情・嗜好・利便性 |
取引単価 | 高額・契約ベース | 低額・単発購入 |
関係性 | 継続的・信頼重視 | 瞬間的・体験重視 |
決済方法 | 請求書・後払い | 即時決済・カード払い |
BtoBでは、関係性が「1対1」または「1対少数」で深く長期的であるのに対し、BtoCは「1対多」であり、マス向けのスピード勝負となります。このため、BtoBでは信頼構築・関係維持・成果可視化が事業継続の基盤になります。
また、BtoBの購買行動は感情ではなく「リスク回避」を軸に進むため、新規事業では「信頼できる導入事例」「ROIを定量で示す資料」「社内稟議が通りやすい根拠」を提示できるかがカギです。つまり、BtoBでは製品そのものよりも“意思決定を後押しする根拠設計”こそが競争力となります。
ビジネスモデルキャンバスを活用した構造設計と仮説検証
BMCの9ブロックとその役割
ビジネスモデルキャンバス(BMC)は、新規事業の全体像を一枚で可視化できるフレームワークであり、BtoBビジネスの複雑な構造を整理するうえで極めて有効です。BMCは以下の9つのブロックで構成され、それぞれが「事業のどの構造的要素を仮説として設計するか」を示します。
ブロック名 | 中心となる問い |
---|---|
顧客セグメント(CS) | 誰のために価値を創造するのか? |
価値提案(VP) | 顧客のどんな課題をどう解決するのか? |
チャネル(CH) | どの経路で価値を届けるのか? |
顧客関係(CR) | どんな関係を築き維持するのか? |
収益の流れ(RS) | 顧客は何にどう対価を支払うのか? |
キーリソース(KR) | 提供に不可欠な資源は何か? |
主要活動(KA) | 提供に不可欠な活動は何か? |
キーパートナー(KP) | 支える外部パートナーは誰か? |
コスト構造(CS) | 発生する主要コストは何か? |
BMCを「仮説検証のダッシュボード」として使う
BtoB新規事業においてBMCを最も効果的に活用するためには、計画書ではなく「動的な検証フレームワーク」として運用することが重要です。初期段階では、すべての記述は仮説に過ぎず、「誰に、どの課題を、どんな価値で届けるか」を市場で実証していく必要があります。
たとえば、特定の顧客セグメント向けの価値提案を検証するために簡易ランディングページを作り、広告を出稿して反応率を測定する。これは「顧客セグメント」と「価値提案」の2ブロックを同時に検証する行為です。このようにBMCを「構築→計測→学習」のリーンスタートアップサイクルに組み込み、顧客対話から得られた事実で仮説を更新していくことが、事業モデルの精度を高める鍵となります。
実務への応用ポイント
- 各ブロックを1つずつ検証するのではなく、「顧客」「価値」「収益」を軸に連動させる
- 仮説をドキュメントではなく「数値」で評価し、再現性を重視する
- 顧客インタビューやPoCを通じ、顧客の“言葉”をBMC上に反映させる
このようにBMCを動的に扱うことで、新規事業は単なる構想ではなく、実証可能な事業設計図へと進化します。ビジネスモデルの成功は、完成度ではなく「検証速度」で決まるのです。
9ブロックの徹底設計:顧客・価値・収益・パートナーの最適構築

顧客セグメント:誰の、どんな課題を解くのか
BtoB新規事業における顧客セグメンテーションは、単なる企業規模や業種の分類では不十分です。企業の内部構造、意思決定者の階層、購買プロセスの特徴までを踏まえ、多層的な「顧客マップ」として設計する必要があります。
たとえば、製造業の中でも「生産ラインの自動化を推進する中堅企業」と「海外拠点を持つグローバルメーカー」では、課題の性質も求める価値も異なります。これを明確にすることで、営業リソース配分や提供価値の打ち出し方が変わり、事業の再現性が高まります。
顧客分析のポイントは以下の通りです。
- 利用者、決裁者、経営層それぞれの課題を分離して把握する
- 「誰が予算を握るのか」「導入効果を誰が測るのか」を特定する
- 共通の“買う理由”を持つ顧客群をセグメントとして定義する
価値提案:選ばれる理由を構築する
BtoBでは「機能が多い」ことよりも「導入による成果が明確である」ことが重視されます。したがって、価値提案は定量的な成果に基づくストーリー設計が不可欠です。ROIの改善、コスト削減率、生産性向上の数値目標を設定し、それを顧客事例とともに提示することが信頼を生みます。
さらに、BtoBの購買プロセスはリスク回避型であるため、「失敗しない導入設計」「サポート体制の充実」「社内稟議に通りやすい説明資料」といった“安心の根拠”が価値の一部となります。
収益モデルとパートナー設計
BtoBの収益構造は、単一の取引よりも継続的な関係性を前提とするモデルが主流です。サブスクリプション型や成果報酬型に加え、カスタマイズ費用やデータ分析支援を組み合わせた多層構造の収益モデルが有効です。
一方で、キーパートナーの選定は事業の成功を左右します。提供価値を補完する技術パートナー、顧客アクセスを担う販売代理店、ブランド信頼を高める業界連携など、エコシステム発想での設計が重要です。
ビジネスモデルキャンバスの9ブロックを活用する際は、「顧客・価値・収益・パートナー」を最初に設計し、他の要素(チャネル、活動、コスト)を後から整合させることで、戦略的整合性を持った事業モデルを構築できます。
日本発BtoB成功企業のケーススタディ:キーエンス・Sansan・ビズリーチ・ラクスルの共通点
成功企業の共通構造
国内BtoB市場で圧倒的な成長を遂げた4社に共通するのは、「高付加価値×再現性×データ活用」の三位一体構造です。各社は異なる業界に属しながらも、価値提案から顧客管理、収益化モデルまでに明確な共通パターンが存在します。
企業名 | 中核事業 | 成功の核となる戦略 |
---|---|---|
キーエンス | 工場向けセンサー・計測機器 | 高利益体質(営業利益率50%以上)を支える直販モデルと価格主導権 |
Sansan | 名刺管理・BtoBクラウドSaaS | データ資産を基盤にしたビジネスネットワーク化 |
ビズリーチ | ハイクラス採用プラットフォーム | マーケット制御型プラットフォームで収益最大化 |
ラクスル | 印刷・物流のシェアリングプラットフォーム | 非効率業界を再構築するサプライチェーン変革モデル |
キーエンスは製品価値ではなく「経営効率の改善」を売る企業です。営業担当者が顧客の課題を深く掘り下げ、ROIを根拠に提案する仕組みを確立。これにより顧客成果=販売成果という高利益モデルを実現しています。
Sansanは名刺管理から企業ネットワークデータベースへと事業を拡張し、1,000万件を超えるデータを活用して新たなBtoB価値を創出しています。ビズリーチは求人企業と求職者を直接結びつけ、仲介を排除するプラットフォーム型モデルで業界構造を変革しました。ラクスルは印刷・物流業界をデジタル化し、稼働率最適化による新たな供給モデルを実現しています。
共通点の本質:構造的優位の確立
4社に共通する本質的特徴は、「顧客課題を構造的に再定義し、解決プロセスを自社のビジネス構造に組み込んでいる」点です。つまり、製品やサービスを売るのではなく、「仕組みそのもの」を商品化しているのです。
また、全社に共通しているのがデータドリブンな継続改善体制です。利用データ、顧客行動、商談成約率を分析し、顧客成功に直結する部分を可視化することで、持続的なLTV向上を実現しています。
このように、キーエンス・Sansan・ビズリーチ・ラクスルはいずれも、単なる製品競争を超えた構造的価値設計企業です。日本のBtoB新規事業が目指すべき成功モデルの原型が、ここにあります。
新規事業が失敗する理由とその回避策:SaaSに学ぶ教訓
多くのBtoB新規事業が失敗する根本要因
国内外の調査によると、新規事業の約80%が3年以内に収益化に失敗しています。特にSaaSをはじめとするBtoB事業においては、「顧客課題の誤認」と「継続的な価値提供の欠如」が最大の失敗要因です。プロダクトの完成度よりも、導入後の定着率(リテンション)こそが事業の命運を分けるのです。
また、サブスクリプションモデルの普及により、LTV(顧客生涯価値)とCAC(顧客獲得コスト)のバランスが最重要指標となっています。日本国内では、CACを回収できるまでに12か月以上を要するSaaSが全体の6割を占め、初期解約率が20%を超えるケースも少なくありません。短期的な獲得重視の営業戦略が、結果的に解約率を高める要因になっているのです。
失敗の構造と教訓の整理
失敗要因 | 内容 | 回避策 |
---|---|---|
顧客課題の誤認 | 顧客の業務理解不足、課題定義が抽象的 | 現場ヒアリング・PoCでの行動観察 |
定着率の低下 | 導入後フォロー不足、効果測定が曖昧 | カスタマーサクセスの仕組み化 |
単価の低下 | 値引き競争、価値訴求不足 | 成果連動型や従量課金で利益確保 |
LTV/CACの悪化 | 新規獲得偏重、アップセル施策欠如 | 既存顧客育成・コミュニティ化 |
SaaSの先進企業では、「オンボーディング(導入初期支援)」と「アダプション(活用定着)」を体系化しています。これにより初期3か月の離脱を防ぎ、LTVを2倍以上に引き上げるケースもあります。たとえばSalesforceやSansanでは、カスタマーサクセス部門を営業部門と同格に置き、顧客の成果を自社のKPIに直結させる仕組みを導入しています。
戦略的回避のポイント
- プロダクト開発よりも「導入後の体験設計」を優先する
- KPIを「獲得数」ではなく「利用率」「成果実感率」に置く
- 顧客の課題を定性・定量の両面から定義し続ける
BtoB事業の本質は「契約」ではなく「継続」にあります。SaaSに学ぶべきは、顧客の成果と自社の収益が一体化する構造を作ることなのです。これが、新規事業が短命に終わらないための最も現実的な回避策です。
未来を見据えたBtoBモデル革新:価値共創とサブスクリプションの進化
BtoB市場の次の成長ドライバー
今後のBtoBビジネスは、「提供価値を売る時代」から「共に価値を創る時代」へとシフトしています。経済産業省の報告では、2028年までに日本のBtoB SaaS市場は2.9兆円規模に拡大する見通しであり、その中核を担うのが価値共創型モデル(Co-Creation Model)です。
このモデルは、企業と顧客が対等な立場で課題解決を行い、成果データを共有しながらプロダクトを共進化させる構造です。たとえば、キーエンスが行う「顧客の現場改善提案型営業」や、ラクスルが提供する「需要データを活用した発注最適化」などは、まさに共創型の成功事例といえます。
サブスクリプションモデルの再定義
従来のサブスクモデルは「利用期間に対する課金」でしたが、現在は「成果・使用量・成果連動」に基づく動的な価格設定が主流になりつつあります。これを支えるのがUsage-based Pricing(従量課金)やValue-based Pricing(価値連動型)の考え方です。
課金モデル | 特徴 | 導入企業の傾向 |
---|---|---|
固定課金 | 安定収益・価格訴求型 | 中小SaaS企業 |
従量課金 | 利用実績連動・透明性高い | API提供型企業 |
価値連動 | 成果ベース・高単価維持 | AI・コンサル型SaaS |
今後は、顧客成果をKPI化し、それに応じて収益を配分する「成果共創モデル」が主流になると考えられます。
次世代BtoBの設計思想
- 顧客と共にデータを活用し、プロダクトを継続的に進化させる
- 導入前後のROIを可視化し、契約の「更新理由」を作り続ける
- 提供価値を「プロダクト+ナレッジ+伴走支援」として設計する
BtoBモデルの未来は、もはや製品を納品して終わる構造ではありません。顧客との共創を通じて、両者の成長を同時に実現するエコシステム型ビジネスへと進化していくのです。この「共創と継続」を軸にした事業構築こそが、これからの新規事業開発における最大の競争優位になります。