新規事業の成功確率は10%未満――この厳しい現実の背景には、「すべてを自前で作ろうとする文化」が潜んでいます。日本企業に根強い“自前主義”は、長年にわたり技術力の象徴であり誇りでもありました。しかし、AIやデジタルツイン、モジュラーアーキテクチャといった技術が進化し、変化のスピードが劇的に加速した今、その価値観は大きな転換点を迎えています。
求められているのは、「何を作るか」ではなく「何を作らないか」を戦略的に選び取る力です。外部リソースを買う(バイ)、他社と組む(パートナー)といった選択を合理的に行うことで、自社のコアを磨き、成長スピードを飛躍的に高めることが可能になります。
本記事では、キーエンスやファナックの成功事例、武田薬品のM&A、トヨタとソフトバンクの提携などを踏まえ、「ビルド・バイ・パートナー」それぞれの定量的判断軸を明らかにします。そして、感覚や慣習ではなくデータで意思決定する「作らない勇気」スコアカードという新たなフレームワークを提示します。VUCA時代における新規事業担当者が持つべき最強の武器は、もはや“作る力”ではなく“選ぶ力”なのです。
戦略的俊敏性が問われる時代:「作らない勇気」が企業成長を左右する

現代のビジネス環境は、変化の速さと複雑さが常識となった「VUCA時代」と呼ばれています。技術革新、社会構造の変化、そして顧客ニーズの多様化が同時進行する中、企業が競争優位を維持するためには、もはや過去の成功体験や自前主義だけでは通用しません。
このような不確実性の高い環境で鍵を握るのが、戦略的俊敏性(Strategic Agility)です。これは、変化を素早く察知し、リソースを再配分し、新しいチャンスを掴む能力を意味します。経営戦略の権威マッキンゼーの調査によると、戦略的俊敏性を持つ企業は、平均して業界平均の2倍の成長率を実現していることが報告されています。
しかし、この俊敏性を実現するうえで最大の壁となるのが、「すべてを自社で作る」という固定観念です。特に日本企業に根強い“自前主義”は、これまでの成功を支えてきた一方で、外部の知を取り込むスピードを阻害する要因ともなっています。
近年、成功している企業は共通して「作らない勇気」を戦略の中核に据えています。例えば、トヨタ自動車はソフトバンクと共同で設立したMONET Technologiesを通じ、MaaS(Mobility as a Service)分野に迅速に参入しました。これは、自社単独では実現困難なAIや通信基盤の知見をソフトバンクと共有することで、圧倒的なスピードで市場機会を掴むという“パートナー”戦略の代表例です。
また、キーエンスは自社で工場を持たない「ファブレス経営」を徹底し、研究開発と営業に資源を集中させています。これは「作らない」という選択によって、最も付加価値を生む領域に俊敏に再投資できる構造を築いている好例です。
このように、「何を作るか」よりも「何を作らないか」を選び取る意思決定能力こそが、次世代の競争優位の基盤となっています。変化の波を乗りこなす企業は、自らのビルド(Build)とバイ(Buy)、そしてパートナー(Partner)の最適バランスを常に見直し、動的に再構成しています。
今後の企業成長において重要なのは、単に技術を所有することではなく、最小限の内製化と最大限の外部連携をどうデザインするかという構想力です。それが、企業に真の俊敏性と持続的成長をもたらす「作らない勇気」の本質なのです。
自前主義の限界と日本企業の構造的課題
日本企業が「作らない勇気」を持つことが難しい背景には、文化的・組織的な構造の問題が横たわっています。特に深刻なのが、「NIH症候群(Not Invented Here Syndrome)」と呼ばれる自前主義的発想です。これは「自社で開発していない技術は信用しない」という無意識の拒絶反応であり、イノベーションを阻害する最大の要因の一つとされています。
日本企業に根付く“拒絶反応”のメカニズム
早稲田大学の入山章栄教授は、この現象を「知の探索が不足した状態」と表現しています。企業が長年同じ領域に留まり続けることで、新たな知の組み合わせが生まれず、結果的に市場変化に対応できなくなるのです。実際、経済産業省の調査によれば、日本の大企業のうち約7割が「外部連携のスピードの遅さ」を成長阻害要因に挙げていることが明らかになっています。
この文化的要因に加え、構造的課題も存在します。終身雇用を前提とした年功序列制度や、部門間の壁によるサイロ化(縦割り構造)は、他部門や外部との協働を阻む大きな障壁です。さらに、社内での意思決定プロセスが多層化しているため、新しい取り組みへの着手が遅れ、スタートアップのスピード感に追いつけません。
成功と失敗を分ける分岐点
代表的な失敗例として、シャープの液晶事業が挙げられます。同社は巨額の投資を行い、自社製パネルに固執しましたが、外部調達を柔軟に行った海外メーカーがコスト競争力を高める中で競争力を失いました。結果的に、同社の“作る執念”が経営危機を招いたのです。
一方で、武田薬品工業によるシャイアー買収のように、自前主義を脱して外部リソースを戦略的に取り込む企業も現れています。この買収により、武田薬品はグローバル製薬大手の地位を確立し、希少疾患領域で圧倒的な存在感を獲得しました。
「作る勇気」と「作らない勇気」を併せ持つ組織へ
今後の日本企業に求められるのは、内製化の是非を感情ではなくデータで判断する「定量的意思決定」の文化です。組織の中に、「作る勇気」と「作らない勇気」の両方を併せ持つ柔軟なマインドセットを育むことが、新時代の競争力の鍵となるでしょう。
そのためには、経営層が自社のアイデンティティを「何を作るか」から「顧客にどのような価値を届けるか」へと再定義する必要があります。この意識転換こそが、文化的惰性を断ち切り、外部の知を取り込み続ける企業への第一歩となるのです。
「ビルド」の真価:模倣できない学習システムを構築する

「ビルド(自社開発)」は、単なる製品を作る行為ではなく、自社の独自性と競争優位を生み出す「学習システム」を構築する戦略行為です。外部調達が進む時代にあっても、企業の中核となる技術やノウハウを自社で蓄積し続けることが、長期的な競争力の維持につながります。
成功事例:キーエンスが「作らない」で創る強さ
キーエンスは、「ビルド戦略」を極めた代表的企業です。同社が構築したのは製品ではなく、「顧客理解と知識創造のサイクル」です。営業担当者が顧客の現場を訪問し、顧客がまだ気づいていない課題を掘り起こすことをミッションとしています。この現場情報が研究開発にフィードバックされ、新製品の約7割が「世界初」または「業界初」という結果を生み出しています。
また、同社は自社工場を持たない「ファブレス経営」を徹底し、開発と営業に資源を集中しています。つまり、「製造」を外部に委ねる代わりに、「学びのシステム」を自社内にビルドしているのです。この構造が、価格競争に巻き込まれない高付加価値経営を実現しています。
成功事例:ファナックが築いた「壊れない」城塞
ファナックもまた、「ビルド」戦略を通じて独自の強みを築きました。同社の理念「one FANUC」に基づく顧客信頼の徹底追求は、製品の信頼性と保守性に表れています。全社員の約3分の1を研究員が占め、長年にわたりコア領域に集中投資してきました。結果として、他社が模倣できない「壊れない機器」「壊れる前に知らせる技術」「壊れてもすぐ直せる体制」を確立し、長期的な顧客ロイヤルティを得ています。
さらに、同社は「生涯保守サービス」を自社で構築し、顧客との関係を永続的に維持する仕組みを確立しました。これは、製品そのものよりも“関係”をビルドした事例であり、まさに知識の蓄積を通じて競争優位を強化する「学習企業モデル」の象徴といえます。
教訓:シャープに見る「過剰なビルド」の罠
一方、シャープの液晶事業は「作ること」への過信がもたらした教訓です。堺工場への巨額投資は一時的には革新的と評価されましたが、液晶パネルのコモディティ化が進み、競合他社との価格競争に敗れました。自前主義に固執した結果、柔軟な戦略転換が遅れたのです。
この事例は、ビルド戦略の目的を「モノを持つこと」ではなく、「知識を蓄える仕組みを持つこと」に置くべきだという重要な教訓を示しています。
まとめ:学習を生むシステムこそが“ビルド”の本質
現代における「ビルド戦略」は、「我々はそれを作れるか?」ではなく、「我々はそれを通じて他社よりも速く学べるか?」という問いに答えるものです。模倣困難な学習構造をビルドした企業こそが、真に持続的な競争優位を築くことができるのです。
「バイ」戦略の進化:M&Aを成長のエンジンに変える定量思考
M&A(買収)は、もはや一部の大企業だけの戦略ではなく、日本企業全体に広がる成長ドライバーとなっています。レコフデータによると、2024年の日本企業のM&A件数は過去最多の4,700件に達し、2025年も高水準を維持しています。
M&Aを定量で判断する「3つの指標」
買収判断を感覚ではなくデータで行うためには、ROI・NPV・IRRといった定量指標の活用が不可欠です。
| 指標名 | 意味 | 特徴 |
|---|---|---|
| ROI(投下資本利益率) | 投資した資本がどれだけ利益を生んだかを示す | 効率性を数値化 |
| NPV(正味現在価値) | 将来キャッシュフローの現在価値から投資額を差し引いた値 | プラスなら価値創出 |
| IRR(内部収益率) | NPVがゼロになる割引率 | 投資の収益性を示す |
これらを組み合わせ、「短期的な収益性」ではなく「中長期の価値創造」を基準に判断することが求められます。
戦略的適合性とPMIが成功を左右する
買収成功の鍵は、数字以上に「戦略的な整合性」と「PMI(Post-Merger Integration)」にあります。買収候補をSWOT分析やバリューチェーン分析で評価し、自社のコア戦略との親和性を定量化します。
また、PMIは契約締結後の統合段階でシナジーを具現化する重要プロセスです。調査によると、M&A失敗の約6割は統合プロセスの不備が原因とされています。「買って終わり」ではなく、「統合して育てる」戦略が必要なのです。
成功事例:武田薬品のシャイアー買収
2019年、武田薬品工業は約7兆円を投じてアイルランドのシャイアーを買収しました。このM&Aは、日本企業史上最大規模でありながら、成功事例として評価されています。その要因は明確な目的設定と徹底した統合設計にありました。
買収目的は、希少疾患領域という自社の弱点を補完すること。さらに、買収前からPMIチームを組織し、文化・制度・人材の統合を定量的に管理した点が成功を支えました。この結果、武田薬品は世界のメガファーマの上位10社に躍進し、収益構造を大きく改善しました。
失敗事例:ソニーのコロンビア・ピクチャーズ買収
一方で、ソニーが1989年に行ったコロンビア・ピクチャーズの買収は、「異文化M&A」の難しさを示す代表例です。日本的な管理文化とハリウッドの自由な創造文化が衝突し、組織混乱を招きました。結果として、巨額の損失を長期間にわたり計上する事態となりました。
この事例は、財務上のシナジーだけでなく、人と文化の統合をデータで管理するPMI能力の重要性を浮き彫りにしています。
まとめ:M&Aは「買う力」より「育てる力」
M&Aを成功に導くのは、ディールの巧妙さではなく、買収後に価値を創出する組織能力です。
日本企業が次の成長段階へ進むためには、「バイ」を一度きりの取引ではなく、学びと進化のプロセスとして設計する視点が欠かせません。
「パートナー」戦略の台頭:信頼とスピードで共創するエコシステム

外部環境の変化が激しい現代において、単独で全てを保有することは競争優位を弱めるリスクを伴います。そのため、企業同士が互いの強みを掛け合わせ、新たな価値を創出する「パートナー」戦略が急速に普及しています。特にAIや半導体、ライフサイエンスなどの高度技術領域では、単独開発よりも、信頼できるパートナーとの協創が主流になりつつあります。
日本企業の象徴例:トヨタとソフトバンクの提携
トヨタとソフトバンクの提携は、モビリティとデジタルインフラという異なる強みを融合し、MaaS領域での新たな社会システム創造を目指す象徴的事例です。トヨタは安全・品質を軸とするリアルアセットに強みを持ち、ソフトバンクは通信とAIプラットフォームに強みがあります。この掛け合わせは、単なる事業連携を超えた社会基盤設計の挑戦と言えます。
このように、企業同士が互いの専門性を共有し、俊敏に市場機会を掴むアプローチが拡大しています。その背景には、変化に迅速に対応するための「時間価値」の最大化があります。
パートナー戦略がもたらす3つの価値
| 価値 | 内容 |
|---|---|
| スピード | 市場参入や技術実装の時間短縮 |
| 補完性 | 互いに不足する機能や技術を補完 |
| 信頼関係 | 長期的な協創とリスク分散を可能にする |
特に、近年はスピードが競争優位の核心です。例えば、半導体業界ではTSMCと日本の自動車メーカーによる協業が進展し、産業競争力の再構築が始まっています。自前戦略では追いつけない領域で、パートナー戦略が新たな可能性を切り拓いているのです。
協創を支えるガバナンスと心理的安全性
成功するパートナー戦略には、ガバナンス設計と心理的安全性が欠かせません。信頼なくしてデータ共有は成立せず、心理的安全性がなければオープンイノベーションは形骸化します。
そのため、協業プロジェクトでは以下が重要になります。
- 目的と役割を明確化する
- KPIとリスクマネジメントを共有する
- 知財・データ活用のルールを設計する
- 文化の違いを理解し、橋渡し役を配置する
この視点は、外部共創が増える日本企業にとって必須となります。
定量で意思決定する「作らない勇気」スコアカードの実践法
ビルド・バイ・パートナーの判断は、従来「経験と勘」に依存してきました。しかし、今日の不確実性の時代には、定量評価に基づく意思決定フレームワークが不可欠です。そこで有効なのが「作らない勇気」スコアカードです。
スコアカードの構成例(重要指標の一部)
| 評価軸 | 主な評価項目 | 判断のポイント |
|---|---|---|
| 競争優位性 | コア技術か / 模倣困難性 | 内製による優位維持が必要か |
| スピード | 市場投入速度 / 技術調達時間 | 外部連携が時間価値で有利か |
| 投資合理性 | ROI・NPV・IRR | 投資対効果が正当化できるか |
| 組織能力 | 内製人材の有無 / 学習効果 | 内製で知識蓄積が起きるか |
| リスク | 技術依存・IPリスク | 外部依存によるリスクは許容範囲か |
このスコアリングにより、感覚ではなく価値創造効果と時間価値の最大化という基準で判断できます。
実務での活用ステップ
ステップ1:目的と価値仮説の明確化
顧客価値、競争優位、収益モデルを明確にすることで、判断の軸がぶれません。
ステップ2:候補戦略(ビルド・バイ・パートナー)の比較
各選択肢についてスコアリングし、優先順位を定めます。
ステップ3:PMOとシナリオ分析
組織横断で意思決定を支え、リスクと学習計画を設計します。
「作らない勇気」を機能させる文化
このフレームワークは道具にすぎません。真価を発揮するには、失敗を許容し、挑戦を評価する文化が欠かせません。心理的安全性がなければ、外部連携も投資判断も形骸化します。さらに重要なのは、「顧客価値を起点に判断する視点」です。技術主義でも自前主義でもなく、顧客の変化と市場のスピードに適応する柔軟性こそ、未来の新規事業開発の本質です。
次章では、こうした意思決定と文化変革を支える組織設計について掘り下げていきます。
未来の組織能力:戦略的俊敏性を支える文化とプロセスの再設計
ビルド・バイ・パートナーを適切に使い分けるためには、フレームワークだけでは不十分です。成功の鍵は、意思決定の前提となる組織文化とプロセスを進化させることにあります。特に日本企業においては、従来型の年功序列、根回し文化、形式的な稟議プロセスがスピードを阻害する要因となってきました。これらを乗り越え、戦略的俊敏性を持つ組織に変革することが求められています。
戦略的俊敏性を構成する3つの要素
| 要素 | 内容 | 目的 |
|---|---|---|
| 市場感知能力 | 顧客・競合・技術変化をリアルタイム把握 | 機会を逃さない |
| 動的資源配分 | 人・資金を迅速にシフト | 成長領域へ集中投資 |
| 挑戦文化 | 学習と小さな失敗の許容 | 新規事業の試行速度向上 |
ハーバード・ビジネス・レビューでも、組織の敏捷性を持つ企業は、通常の企業と比較し利益成長率が平均で30%以上高いと示されています。これは、俊敏性が単なるスローガンではなく、経営成果と直結する能力であることを意味します。
心理的安全性と意思決定プロセスの刷新
組織能力の中でも最も重要なのは、心理的安全性です。米Googleが行った調査「プロジェクト・アリストテレス」では、最も高業績のチームの共通点として心理的安全性が挙げられました。意見を自由に発言できる環境が、イノベーションを生む土壌となるのです。
加えて、新規事業における意思決定は、以下のようなプロセスが有効です。
- 仮説ベースの意思決定と検証サイクル導入
- 稟議型から、責任者権限による迅速な決断へ
- KPIを事業フェーズに応じて可変設定(探索段階では学習指標を重視)
これは、大手企業が陥りがちな「完璧な情報を待つ病」を避ける効果があります。
経営層のコミットメントとタレント戦略
組織変革には必ず経営トップのコミットメントが必要です。トップが「作らない勇気」を明確に掲げ、失敗を許容するメッセージを発信することで、組織全体の行動が変わります。
さらに、外部タレントの登用や、社内起業家の育成制度も重要です。例えば、先進企業では以下のような取り組みが進んでいます。
- 社内アクセラレーションプログラム
- 外部VCや大学との人材交流
- CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)活用による“学びながら投資”
こうした取り組みは、新しい知と視点を組織に取り込む基盤となります。
文化と制度が揃ってこそ「作らない勇気」が機能する
戦略フレームワークが優れていても、それを使いこなす組織文化とプロセスがなければ成果は生まれません。だからこそ、未来の新規事業開発において最も重視すべきは、変化を前提とした文化、学び続ける組織、迅速に動くプロセスです。
そして、この変革の中心にあるのは、企業が自らに問い続ける姿勢です。「我々は何をつくるべきか」ではなく、「どのように価値を創り、届け続けるか」この問いに答え続ける企業こそが、「作らない勇気」を真に体現し、未来の市場で勝者となるのです。
