現代のビジネス環境では、ユーザーリサーチは単なる補助的な活動ではなく、企業の意思決定を支える羅針盤として欠かせない存在になっています。新製品の需要予測やサービス改善、さらには市場トレンドの把握に至るまで、リサーチは客観的なデータに基づいて方向性を示し、企業の持続的な成長を後押しします。
一方で、多くの日本企業では「時間がない」「予算がない」「理解がない」といった「3つのない」問題に直面し、継続的な実践が難しい状況にあります。特に、リサーチの投資対効果(ROI)が十分に可視化されていないため、経営層からの支持やリソース確保が進まない悪循環が生じています。
さらにアジャイル開発が主流となった今、リサーチには速度と質の両立が強く求められています。短期間で市場変化に対応するスピードと、ユーザーの深層心理を探る質の高さはしばしば対立する要素ですが、両者を同時に実現する仕組みがなければ競争優位性を維持することは困難です。
本記事では、最新のResearchOpsフレームワークやAIの活用、ナレッジマネジメントの手法、そして国内企業の先進事例を交えながら、速度と質を両立させる実践的な組織設計のあり方を解説していきます。
ユーザーリサーチが企業成長に欠かせない理由

ユーザーリサーチは、製品やサービスの改善にとどまらず、企業の持続的な成長を支える戦略的な基盤です。近年では、リサーチが単なる「調査活動」ではなく、経営層の意思決定に直接つながるデータ提供の役割を果たしている点が注目されています。たとえば新規事業の立ち上げにおいて、事前のユーザーリサーチがあるかないかで成功確率が大きく変わることが、国内外の研究で明らかになっています。
特に重要なのは、ユーザーがまだ言語化できていない潜在的なニーズを発見することです。単なるアンケートや満足度調査では得られない「行動の裏側」にある価値観や心理を捉えることができれば、差別化された事業戦略を打ち立てることが可能になります。経済産業省の調査によれば、ユーザー中心の開発を取り入れた企業は、新製品の市場投入後3年以内の売上成長率が平均で1.6倍高いという結果が報告されています。
しかし、日本企業の多くは「時間がない」「予算がない」「上司や同僚の理解がない」という、いわゆる「3つのない」に阻まれ、リサーチを十分に活用できていません。この背景には、リサーチの成果が投資対効果として数値化されにくいことや、経営層に伝わる形で可視化されていないという課題があります。リサーチが「コスト」と見なされると、当然ながらリソース配分も後回しにされ、現場ではモチベーション低下や形骸化が進んでしまいます。
また、アジャイル開発やリーンスタートアップが主流となった現在では、スピーディーな意思決定が求められる一方で、深い洞察を得るための質の高いリサーチが必要とされています。短期的な成果だけを追い求めるとユーザー理解は浅くなり、長期的にはプロダクトの競争力を失うリスクがあるのです。したがって、速度と質をバランスよく両立させることが、企業が市場で持続的に成長するための鍵となります。
このように、ユーザーリサーチは単なる補助業務ではなく、企業の方向性を定める「羅針盤」として不可欠です。次に、こうしたリサーチを効率的かつ組織的に推進する仕組みとして注目される「ResearchOps」について解説します。
速度と質のジレンマを解消するResearchOpsとは
従来のユーザーリサーチは、担当者のスキルや経験に依存しがちで、組織全体での運用は非効率になりやすい傾向がありました。これを解決するために登場したのが「ResearchOps(リサーチ・オペレーションズ)」です。ResearchOpsは、UX分野で確立された「DesignOps」から派生した概念で、リサーチ活動を組織的かつ体系的に支える仕組みを指します。
ResearchOpsには、主に以下の5つの機能があります。
- リクルートメント:対象者の選定や日程調整を効率化し、担当者の負担を軽減する
- ガバナンス:個人情報保護や法的リスク管理を徹底する
- ナレッジマネジメント:調査知見を資産として蓄積・再利用する
- ツール管理:最適なツールを組織全体で共有・活用する
- トレーニング:専門家以外のメンバーもリサーチを実施できる体制を整える
この枠組みを導入することで、リサーチ担当者は本来の役割である分析や洞察に集中できるようになります。さらに、リサーチの「民主化」と「産業化」を同時に進められる点が大きな特徴です。つまり、誰もが一定の品質でリサーチを実施できる環境を整えつつ、全社的に成果を再利用することで組織全体の成長につなげられるのです。
例えば、外部のリサーチ会社を活用してユーザーリクルートをアウトソースし、社内では分析に注力するケースや、リポジトリを活用して知見を全社員が検索可能にする取り組みなどが実際に進められています。こうした仕組みによって、従来数週間かかっていた調査準備を数日で終えることも可能になります。
また、ResearchOpsは速度と質の二律背反を解消するための「ハイブリッド型アプローチ」ともいえます。ガバナンス機能によってリサーチの健全性を確保しながら、トレーニングやツールの共有によって現場のスピード感を維持できるのです。実際に、米国の調査会社UX247によると、ResearchOpsを導入した企業はリサーチサイクルの平均期間を40%短縮しながら、分析精度を維持できたというデータが示されています。
このようにResearchOpsは、リサーチを「個人の努力」から「組織の戦略」へと進化させ、速度と質を両立させる強力なフレームワークとなっています。次の章では、このフレームワークをどのように組織モデルへ組み込むかを考えていきます。
組織モデルの選択肢:集中型・分散型・ハイブリッド型の比較

ユーザーリサーチを効果的に定着させるためには、組織の目的や規模に応じた最適な運用モデルを選ぶことが不可欠です。特に新規事業開発においては、スピード感と質を両立させながら、知見を組織全体に循環させる体制が求められます。代表的なモデルとして「集中型」「分散型」「ハイブリッド型」の3つが挙げられます。
まず集中型モデルは、専門のリサーチチームが全社横断的に調査を実施する形式です。専門性や知見の一貫性が高く、ガバナンスを効かせやすい利点があります。ただし、限られた人材に依存するため、案件数が増えると処理が追いつかず、スピードが求められる新規開発には不向きな場合もあります。
一方、分散型モデルは、各事業部門やプロダクトチームが独自にリサーチを行う形です。現場の意思決定スピードが向上し、ユーザーの声を素早く反映できますが、知見がサイロ化して共有されにくい点や、ツールや手法が乱立して非効率的になりやすい欠点があります。
その中間に位置するのがハイブリッド型モデルです。基盤部分、つまりツール導入やデータガバナンスは集中管理しつつ、実行は各部門に委ねるスタイルです。これにより、知見の統一性と現場のスピード感を両立できます。
以下は3つのモデルの特徴を整理したものです。
観点 | 集中型モデル | 分散型モデル | ハイブリッド型モデル |
---|---|---|---|
速度 | 遅い(人材依存) | 速い(現場即応) | 速度と質のバランスを確保 |
品質 | 高い(専門性) | ばらつき大 | 高い(共通基盤+現場実行) |
コスト | 高い(専任雇用) | 重複投資発生 | 効率的に最適化可能 |
ナレッジ | 蓄積しやすい | サイロ化 | 体系的に共有可能 |
実際の事例として、メルペイは少人数体制で外部委託を組み合わせ、週次でユーザー調査を行う高速サイクルを確立しました。この仕組みにより、電子本人確認機能の開発では、初期段階で1/4しか成功しなかったプロトタイプのタスク完了率を最終的に4/4にまで改善しました。
一方で、DeNAは「事業の成功確率を高める」という明確なミッションを掲げ、全社向けの研修を通じてリサーチを専門家だけでなく現場の担当者も担える仕組みに進化させています。このように、モデルは単に理論で選ぶのではなく、自社の戦略や文化に合わせて適応させることが重要です。
AIが変えるリサーチ運用:高速化と洞察の深化
近年のAI技術の進化は、ユーザーリサーチの現場に革命をもたらしています。従来は数日から数週間を要した作業が、AIの導入によって数時間あるいは数十分で完了するケースが増えてきました。これにより、リサーチ担当者は作業の効率化だけでなく、より深い洞察の獲得にも集中できるようになっています。
AIが活用される主要な領域は以下の4つです。
- 計画・設計:過去の調査結果をもとに、AIが仮説や質問リストを自動生成
- データ収集:スクリーニングや日程調整を自動化し、リクルーティングを効率化
- データ分析:音声文字起こしやタグ付けを自動処理し、数日分の作業を数時間に短縮
- アウトプット:ペルソナやシナリオの自動生成、エグゼクティブ向けサマリーの作成
特に分析段階での効果は顕著です。インタビューの音声を自動で文字起こしし要点をまとめるツールでは、従来2〜3日かかっていた作業が30分に短縮された事例もあります。さらに、DovetailのようなAI搭載型ツールでは、定性データを自動でグルーピングし、洞察を可視化することで、リサーチ担当者が見落としがちなパターンも明確に浮かび上がらせます。
一方で、AIに全てを委ねるのは危険です。AIは大量のデータ処理やパターン抽出には優れていますが、ユーザーの感情や倫理的判断、ビジネス文脈への落とし込みは依然として人間の役割です。AIは速度を担い、人間は質を担うという分業が最も効果的だと考えられています。
調査会社マインディアのレポートでは、AIを活用したリサーチ企業は従来より40%早くデータ分析を完了しながらも、洞察の深度は維持または向上していると報告されています。これは、新規事業開発においてリスクを素早く把握し、意思決定の精度を高めるうえで非常に大きな武器になります。
さらに、AIの民主化効果により、専門家だけでなく誰もが一定水準のリサーチを行える環境が広がりつつあります。ただし、この流れは同時にプライバシー保護や倫理的配慮の重要性を増大させます。AIが支える効率性と、人間が担う信頼性を両立することで、リサーチは今後さらに戦略的な役割を果たしていくのです。
リサーチ資産を構築するナレッジマネジメント

ユーザーリサーチの成果は、その場限りの改善にとどめてしまうと投資対効果が薄れます。新規事業開発で重要なのは、リサーチを組織全体の「資産」として蓄積し、未来の意思決定に活用できる仕組みを整えることです。その鍵を握るのがナレッジマネジメントです。
ナレッジマネジメントでは、担当者が得たインタビュー内容や行動観察を「暗黙知」から「形式知」へ変換し、組織内で共有可能な形にすることが求められます。例えば、ユーザーの感情や文脈をMiroなどのオンラインツールで図解化し、タグ付けを施すことで、検索性と再利用性が高まります。こうしたプロセスを経て、リサーチ結果は「一過性の情報」から「再利用可能な知見」へと進化します。
実際、ナレッジ共有が不十分な組織では、同じような調査を繰り返し実施する非効率なケースが散見されます。これにより時間とコストが浪費され、意思決定のスピードも鈍化してしまいます。逆に、リサーチリポジトリを導入して知見を一元管理した企業では、プロジェクト開始時の調査準備にかかる時間を30%以上削減できたという報告もあります。
また、リサーチ資産は単なる記録ではなく「未来の意思決定を支える武器」となります。過去の失敗から学び、同じ過ちを繰り返さないための指針として機能するだけでなく、成功事例を横展開することで新規事業開発のスピードを加速させる効果も期待できます。
重要なのは、ナレッジマネジメントを単なる情報整理に終わらせず、実際の事業開発プロセスに統合することです。会議や意思決定の場で過去のリサーチデータが即座に参照されるようになれば、リサーチは組織文化の一部として根付いていきます。
信頼を生むガバナンスと倫理的基盤
リサーチ活動を持続的に実践するためには、効率やスピードだけではなく、ガバナンスと倫理的基盤の確立が欠かせません。特に新規事業開発では、ユーザーとの信頼関係を築けるかどうかが、その後の協力体制やブランド価値に直結します。
まず重要なのは個人情報保護とプライバシーへの対応です。日本国内では個人情報保護法に基づき、データの利用目的を明示し、参加者の同意を得ることが義務付けられています。違反すれば法的リスクだけでなく、企業ブランドの信頼失墜につながります。近年ではAIを活用する場面が増えたことで、データバイアスやプライバシー侵害といった倫理的課題も浮上しており、リサーチの透明性と説明責任を徹底することが組織の信頼を守る条件となっています。
また、被験者との関係構築も欠かせません。医療分野の治験では詳細な説明と同意が求められるように、ユーザーリサーチでも調査目的やデータの扱いを明確に伝える必要があります。インタビュー現場では参加者が安心して本音を語れるよう、誘導的な質問を避け、8割は「聞く姿勢」に徹することが推奨されています。
さらに、ガバナンスは社内的にも大きな意味を持ちます。部門ごとにルールが異なると、リサーチの結果が正しく比較できず、知見が資産として機能しません。そこで必要なのが、共通のプロトコルや倫理指針を定め、組織全体で徹底する仕組みです。こうした枠組みは単なるリスク回避にとどまらず、リサーチ結果を安心して事業開発に活用できる土台を提供します。
信頼は一朝一夕に築かれるものではありません。しかし、ガバナンスと倫理的配慮を組織文化として浸透させれば、ユーザーも協力的になり、調査精度は高まり、最終的には新規事業の成功率を高めることにつながります。
リサーチ文化を根付かせる組織的アプローチ
ユーザーリサーチを一時的な取り組みで終わらせず、組織全体に浸透させるためには「文化」として根付かせることが欠かせません。どれほど効率的な仕組みやツールを導入しても、現場や経営層にとってリサーチが「自分事」にならなければ、活動は持続せず成果も限定的になってしまいます。新規事業開発においては特に、リサーチ文化の定着が事業成功率を左右する大きな要素となります。
経営層を巻き込む施策
まず重要なのは経営層の理解とコミットメントを得ることです。経営層がリサーチを「コスト」ではなく「投資」と認識しなければ、予算や人材が十分に割り当てられません。ここで有効なのが、リサーチの成果を具体的な数字で可視化することです。例えば、リサーチに基づいたUI改善で問い合わせ件数が4倍に増加した事例や、顧客アンケート分析によって在庫コストを15%削減した実績は、ROIの高さを経営層に示す強力な材料となります。
また、定例会議や経営層向けのセッションでユーザーのインタビュー映像を共有するのも効果的です。ユーザーの生の声は、資料や数値以上に経営層の意思決定に影響を与えるとされており、リサーチの重要性を直感的に理解してもらえるきっかけになります。
他部門を巻き込む仕組み
リサーチ文化の定着には、経営層だけでなく現場部門を巻き込むことも不可欠です。特にプロダクトマネージャーやエンジニアは多忙なため、最初から大規模な取り組みを依頼すると抵抗感が生まれやすくなります。そこで有効なのが「小さな一歩」です。たとえば、まず一人のユーザーに30分インタビューしてみるなど、負担の少ない方法で参加を促すことが推奨されます。
さらに、リサーチ結果を共有するだけでなく、ワークショップ形式で改善案を一緒に議論する取り組みも効果的です。自分の意見がプロダクト改善に直結すると認識できれば、現場メンバーはリサーチを「他人事」ではなく「自分事」として捉えるようになります。
リサーチ文化浸透の効果
リサーチ文化が組織に根付くと、意思決定の精度が高まるだけでなく、部門間の連携も強化されます。英国の調査会社UX247の報告によれば、リサーチ文化を醸成している企業はそうでない企業に比べ、新規事業開発における成功率が約1.7倍高いとされています。これは、リサーチが単なる調査活動ではなく、組織全体の共通言語となり、方向性を一致させる効果を持つからです。
また、文化として定着することで担当者のモチベーションも向上します。自分の仕事が経営層や現場に直接影響を与えていると実感できれば、リサーチャーは継続的に高品質なアウトプットを生み出し続けられます。
このように、リサーチ文化を根付かせることは、単なる業務効率化の枠を超えて、組織の競争力を高める基盤となります。次のステップは、この文化を新規事業開発のプロセスにどのように統合していくかを考えることです。