日本企業は長期的な低成長に直面し、「失われた30年」や経済産業省が警鐘を鳴らす「2025年の崖」といった課題に直面しています。市場の変化や技術革新が加速する中で、従来の成功体験や固定観念にとらわれていては、新たな事業機会をつかむことはできません。求められているのは、変化に適応し、既存の枠組みを超えた発想を生み出す「柔軟な思考」です。

柔軟な思考は、単なるクリエイティブな発想にとどまらず、認知的柔軟性や心理的柔軟性、さらには水平思考といった複数の要素が組み合わさって形成されます。これらは個人のスキルとして育成可能であるだけでなく、組織文化やリーダーシップと密接に結びついており、事業開発の成否を左右します。

本記事では、柔軟な思考の理論的基盤から具体的な実践方法、さらに富士フイルムやソニーなどの成功事例までを詳しく解説します。新規事業開発に取り組むビジネスパーソンが、自社の成長に活かせる実践的なヒントを得られる構成としています。

新規事業開発における「柔軟な思考」の重要性

新規事業開発の現場では、不確実性の高い市場環境や急速な技術革新に直面します。従来型の「前例踏襲」に頼った思考では、競争の激しい環境を生き抜くことは困難です。こうした状況を突破する鍵となるのが「柔軟な思考」です。

柔軟な思考は、単なるアイデア発想力にとどまらず、変化に適応し、新しい視点を取り入れて行動に移す力を指します。経済産業省が示す「2025年の崖」問題でも、老朽化したシステムや人材不足への対応には、従来の延長線ではない発想が必要とされています。

柔軟な思考が求められる背景

  • 日本経済は「失われた30年」と呼ばれる停滞期にある
  • デジタルトランスフォーメーション(DX)、SDGs、カーボンニュートラルなど新課題が次々登場
  • 顧客ニーズの変化が早く、唯一の正解が存在しない

実際、世界経済フォーラム(WEF)の「Future of Jobs Report 2023」では、今後最も必要とされるスキルの一つとして「Analytical thinking」と並び「Creative and flexible thinking(創造的かつ柔軟な思考)」が挙げられています。これは新規事業開発に直結する能力です。

柔軟な思考が生む成果

柔軟な思考を持つ組織では、以下の効果が期待できます。

  • 市場変化への迅速な対応
  • 多様な価値観を活かしたイノベーションの創出
  • 新規事業の失敗から学び、再挑戦する力の強化

例えば、富士フイルムは写真フィルム市場の崩壊に直面した際、自社の技術資産を「化粧品」や「医療分野」に応用し、成功を収めました。この背景には、固定観念に縛られない柔軟な視点がありました。

つまり、新規事業開発における柔軟な思考は、単なる個人の発想力ではなく、組織全体を変革へ導く中核的な能力なのです。

認知的柔軟性・心理的柔軟性・水平思考の基礎知識

柔軟な思考は漠然とした概念ではなく、心理学や経営学の研究に基づく具体的な理論で整理できます。特に重要なのが「認知的柔軟性」「心理的柔軟性」「水平思考」の3つです。

柔軟な思考の3要素

概念定義ビジネスでの応用
認知的柔軟性新しい情報や状況に応じて思考を切り替える能力市場変化への適応、複雑な問題解決
水平思考前提を疑い、異なる角度から発想する方法論斬新なアイデア創出、ビジネスモデル変革
心理的柔軟性不快な感情に囚われず、価値観に沿って行動する能力ストレス耐性の強化、挑戦と失敗からの回復力

認知的柔軟性

認知的柔軟性は、異なる状況に合わせて思考を切り替える力です。研究によると、この能力が高い人は問題解決能力や学習効率に優れ、イノベーションの推進力となることが示されています。起業家を対象としたメタ分析では、市場機会を発見する力(アラートネス)や自己効力感を高め、創造性につながることが確認されています。

水平思考

水平思考は、従来の論理的思考(垂直思考)とは異なり、意図的に前提を崩して新しい可能性を探る方法です。例えば「13個のオレンジを3人で分ける」という課題に対して、「ジュースにして分ける」といった発想を導くのが水平思考です。日本企業に根強い「前例踏襲主義」を打破する手段として有効です。

心理的柔軟性

心理的柔軟性は、自分の感情や思考に振り回されず、価値観に基づいて行動する力です。不確実性の高い新規事業開発においては、失敗を恐れず挑戦を続けるために不可欠です。また、リーダーが心理的柔軟性を持ち、失敗や弱みを率直に示すことで、チーム内に心理的安全性が生まれ、イノベーションが促進されます。

この3要素は互いに補完し合い、柔軟な思考の総合力を高める基盤となります。新規事業開発に取り組む担当者は、理論として理解するだけでなく、日常業務で意識的にトレーニングしていくことが重要です。

柔軟な思考を実践に変える手法:ブレインストーミングとデザイン思考

柔軟な思考は理論として理解するだけでなく、実際にアイデアを生み出し事業に結びつける実践が不可欠です。その代表的なアプローチがブレインストーミングとデザイン思考です。

ブレインストーミングの効果とルール

ブレインストーミングは単なるアイデア出しではなく、心理的安全性を確保したうえで創造性を最大化するための体系的な方法です。基本的な4つの原則があります。

  • 判断を保留し批判をしない
  • 突飛なアイデアを歓迎する
  • 他人のアイデアを組み合わせ発展させる
  • 質より量を優先する

この4原則を守ることで、参加者が安心して発言でき、既存の枠を超えた発想が生まれやすくなります。さらに、ステップラダー法やブレインライティングといった応用技術を取り入れることで、特定の人に意見が偏るのを防ぎ、多様な視点を引き出すことが可能です。

デザイン思考による人間中心のアプローチ

デザイン思考は、ユーザーの潜在的な課題を起点にアイデアを具体化する手法です。以下の5つのプロセスを繰り返すことで、ユーザーに本当に必要とされる解決策を導きます。

プロセス内容
共感ユーザー観察やインタビューを通じ、感情やニーズを把握する
問題定義本質的な課題を明確化する
発想ブレインストーミングなどで幅広いアイデアを創出する
プロトタイプアイデアを簡易的な形にし、素早く検証する
テスト実際のユーザーからフィードバックを得て改善する

国内でも富士通やSUBARU、キリンといった企業がデザイン思考を導入し、DXや新サービス開発の基盤として成果を上げています。特に、短期間で試作と検証を繰り返すプロセスは「失敗を恐れる文化」に風穴を開け、組織全体を挑戦に前向きにさせる効果があります。

実践のポイント

  • ファシリテーターを置き、参加者全員が発言できる場を整える
  • 短時間で集中し、アイデアを数多く出すことに注力する
  • 小さな試作品で早く失敗し、改善サイクルを回す

このように、柔軟な思考を実務に落とし込むには、形式に従うだけでなく、心理的安全性と学習文化を組み合わせることが重要です。

イノベーションが根付く組織文化:心理的安全性と両利きの経営

個人がいくら柔軟に考えられても、それを受け止める組織文化がなければ新規事業は実を結びません。イノベーションを根付かせるには「心理的安全性」と「両利きの経営」という二つの柱が不可欠です。

心理的安全性の役割

心理的安全性とは、「このチームでは意見を述べても批判されない」という安心感です。Googleが行った「プロジェクト・アリストテレス」でも、心理的安全性は生産性の高いチームの最重要要素とされました。

心理的安全性が高い組織では、以下の効果が得られます。

  • 多様な意見が出やすく、斬新なアイデアが生まれる
  • ミスを隠さず改善につなげられる
  • 挑戦を恐れない雰囲気が広がり、行動量が増える

リーダーが自ら失敗を認め、率直な意見交換を促すことが、心理的安全性を高める最も有効な方法です。

両利きの経営の重要性

両利きの経営とは、既存事業の効率化(深化)と新規事業の探索を同時に追求する戦略です。ハーバード・ビジネス・スクールの研究でも、両利きの経営を実践する企業は長期的に高い業績を維持しやすいとされています。

日本企業では、既存事業の利益を守る部門と新規事業に挑戦する部門の間で「誰が稼いでいるのか」という対立が起きやすい傾向があります。これを防ぐためには、以下の工夫が求められます。

  • 新規事業部門を独立させ、評価基準や人事制度を分ける
  • 経営トップが戦略的に両部門を調整し、資源配分を行う
  • 成功だけでなく挑戦自体を評価する仕組みを導入する

富士フイルムやAGCといった企業は、既存の強みを活かしながら新領域に進出することで、この経営モデルを成功させています。

文化として根付かせるために

  • リーダーが率先して失敗を共有し、挑戦を称賛する文化を作る
  • 既存事業と新規事業を「対立関係」ではなく「補完関係」として捉える
  • 両利き経営を制度的に支える仕組み(予算・評価・組織設計)を整備する

この二つの柱を組み合わせることで、挑戦が歓迎され、既存の強みを活かしつつ未来を切り開く組織文化が形成されます。

富士フイルム・ソニー・リクルートに学ぶ成功と失敗の事例

新規事業開発においては、理論だけでなく具体的な企業事例から学ぶことが極めて有効です。日本企業は多くの挑戦を重ねてきましたが、その中には世界的に評価される成功例もあれば、残念ながら失敗に終わった事例もあります。

富士フイルムの事業転換

富士フイルムは、デジタル化の波で主力の写真フィルム事業が急速に縮小した際、自社の技術資産を徹底的に見直しました。フィルムで培ったコラーゲンや抗酸化技術を医療・化粧品分野に応用し、アスタリフトなどの新規事業を成功させました。これは、既存技術を異分野に転用する柔軟な思考の象徴であり、両利きの経営を体現した事例として広く注目されています。

ソニーのSeed Acceleration Program

ソニーは2014年に「Seed Acceleration Program(SAP)」を立ち上げ、社内のアイデアを事業化する仕組みを整えました。このプログラムからは習慣化アプリ「みんチャレ」などが生まれ、社内起業家育成の成功例として知られています。トップダウンで制度を整備し、挑戦を促す環境をつくることで、大企業でも新規事業が芽生えることを示しました。

リクルートのNew RING

一方、リクルートの「New RING」は1980年代から続くボトムアップ型の新規事業提案制度です。社員全員が応募でき、年間1,000件以上の提案が寄せられます。段階的に審査と投資を行う仕組みを持ち、挑戦を称賛する文化が根付いているのが特徴です。これは単なるプログラムではなく、組織文化として「失敗を恐れず挑戦する姿勢」を浸透させている点が強みです。

失敗から学ぶケース

一方で、日本の大手電機メーカーは「イノベーションのジレンマ」に直面し、過去の成功体験に縛られて新しい市場への適応を逃しました。過剰品質へのこだわりや垂直統合型モデルへの固執が、韓国や台湾の競合に敗れる要因となりました。この失敗は、柔軟な思考を欠いた結果、新規事業の芽を摘んでしまう典型例です。

これらの事例から導かれる教訓は明確です。柔軟な思考を組織文化にまで根付かせることで、変化をチャンスに変えられるのです。

日本企業が直面する「大企業病」とその克服策

新規事業開発が停滞する背景には、組織文化や制度に根付いた「大企業病」が存在します。これは単なる比喩ではなく、多くの日本企業に共通する課題として指摘されています。

大企業病の主な症状

症状内容
意思決定の遅延稟議制度や多数の承認プロセスでスピードが失われる
組織の硬直化部門ごとのサイロ化で横断的な連携が困難になる
リスク回避文化失敗を恐れる風土が挑戦を妨げる
内向き業務の増加社内調整に時間が費やされ、顧客視点が薄れる
年功序列の弊害成果より在籍年数が評価され、若手の挑戦意欲を削ぐ

こうした特徴は、柔軟な思考と正反対の性質を持ち、イノベーションを阻む要因となります。

克服に向けた具体策

  • 意思決定権を現場に移し、スピードを確保する
  • 横断的なプロジェクトチームを設置し、部門の壁を低くする
  • 失敗事例を共有する「失敗報告会」を制度化し、学習の場に変える
  • 年功序列から脱却し、成果や挑戦を評価する人事制度に改革する

シリコンバレーでは「失敗はキャリアの糧」とされ、再挑戦を支援する仕組みがあります。イスラエルの「フツパー精神」では、権威に物怖じせず挑戦する文化が根付いています。日本が学ぶべきは表面的な模倣ではなく、挑戦のコストを下げ、失敗から学べる仕組みを制度的に組み込むことです。

今後の展望

大企業病を克服するには、経営層が率先して改革を進めるとともに、現場に挑戦を促す仕組みを浸透させることが不可欠です。制度改革と文化醸成の両輪を回すことで、日本企業は停滞から抜け出し、新規事業開発を持続的に推進できるようになります。

グローバル視点から学ぶイノベーション文化:シリコンバレーとイスラエルの示唆

新規事業開発を進める上で、日本国内の事例だけではなく、海外のイノベーション文化から学ぶことも欠かせません。特に注目すべきは、シリコンバレーとイスラエルの二つのエコシステムです。両者に共通するのは、失敗や挑戦を前向きに捉える価値観と、それを制度的に支える仕組みです。

シリコンバレーの失敗許容文化

シリコンバレーでは「Fail Fast, Fail Forward(素早く失敗し、前に進め)」という言葉が根付いています。失敗はキャリアの傷ではなく、学習の機会として評価されるのが特徴です。米国の調査では、シリアルアントレプレナー(連続起業家)の成功率は初回起業家に比べて約2倍高いと報告されています。これは、失敗経験が次の挑戦に活かされる証拠です。

この背景には、ベンチャーキャピタルによる積極的な投資や、再挑戦を容易にする法制度があります。つまり、挑戦のコストを下げ、失敗からの回復を支える仕組みが整っていることが文化を強固にしています。

イスラエルのフツパー精神

イスラエルは「スタートアップ国家」と呼ばれるほど起業活動が盛んです。その根底には「フツパー」と呼ばれる大胆さと粘り強さの文化があります。若手であっても上司や権威に対して臆せず意見を述べ、挑戦を続ける姿勢が評価されます。

イスラエル政府も研究開発支援やインキュベーション制度を整備し、毎年600社以上のスタートアップが生まれる環境をつくっています。強い文化と制度的な後押しが融合し、イノベーションが次々と生まれる仕組みになっているのです。

日本企業が学ぶべきポイント

  • 失敗を罰ではなく学習機会として扱う仕組みを整える
  • 若手が自由に意見を言える心理的安全性を高める
  • 社内外を問わず挑戦を支援する資金や制度を設ける

海外文化をそのまま移植することはできませんが、根底にある原則を日本の文脈に合わせて導入することで、新規事業開発における挑戦の土壌を豊かにすることができます。

リーダーに求められる思考法:リベラルアーツと生成AI時代の判断力

新規事業開発を導くリーダーには、専門知識だけでなく、広い視野と先見性が求められます。特に現代では「リベラルアーツの素養」と「生成AIを活用する判断力」が欠かせない資質として注目されています。

リベラルアーツによる視野の拡大

歴史、哲学、文学、芸術などのリベラルアーツは、直接的には経営と無関係に見えるかもしれません。しかし、異なる時代や文化の価値観に触れることで、固定観念を超えた視点を得ることができます。

例えば、哲学的な問いかけは「自社は何のために存在するのか」「社会にとってどのような価値を提供できるのか」といった根源的な視点を経営者に与えます。これは新規事業開発におけるビジョン形成に直結します。日本企業でも、TOPPANや大成建設がリベラルアーツを組み込んだ人材育成を始めており、長期的な思考力の強化につながっています。

生成AI時代のリーダーシップ

生成AIの登場により、情報収集や文書作成の多くは自動化可能になりました。リーダーの役割は「問いを設定する力」と「価値判断を下す力」にシフトしています。

  • AIに正しい問いを与え、適切な選択肢を引き出す力
  • AIが提示した結果を批判的に吟味し、人間らしい共感や倫理観を加える力
  • 組織内でAI活用の実験を推進し、失敗を許容する文化を醸成する力

特に重要なのは、AIを万能の答えではなく、強力なツールとして扱い、人間の判断力で方向性を決める姿勢です。

次世代リーダーの条件

  • 専門知識に偏らず、多様な知を吸収する
  • テクノロジーを批判的かつ積極的に活用する
  • 社員の挑戦を支援し、文化的な変革を導く

リベラルアーツとAIの双方を取り入れることで、リーダーは複雑で不確実な時代においても的確な意思決定を行い、新規事業開発を成功へと導くことができます。