新規事業開発は、日本企業にとって成長戦略の中心に据えられる一方で、その多くが失敗に終わっている現実があります。スタートアップだけでなく大手企業でさえも、新しい事業が市場に受け入れられず撤退を余儀なくされるケースは少なくありません。その大きな要因のひとつが「顧客起点マインドセット」の欠如です。

従来の「顧客視点」は、担当者の経験や主観に基づき顧客を想像するものであり、表層的な理解にとどまりがちでした。一方で「顧客起点」は、購買行動や利用データなど客観的な事実に基づき意思決定を行うアプローチであり、再現性のある成功を導く土台となります。さらに、現代は「モノ」から「コト」への価値観のシフトが進み、顧客が求めるのは製品そのものではなく、そこから得られる体験や成果です。

本記事では、理論的なフレームワークから実践的な手法、さらにAIやデータ活用の最新動向、日本企業の事例までを体系的に紹介します。読者の皆さまが新規事業を推進するうえで、顧客起点マインドを組織に根付かせ、持続可能な成長につなげるための具体的なヒントを得られるよう構成しました。

顧客起点と顧客視点の違いを理解することが成功の第一歩

新規事業開発を成功に導くためには、まず「顧客視点」と「顧客起点」という二つの言葉の違いを明確に理解することが重要です。日本企業では「顧客視点」という言葉がよく使われますが、実はこれは想像に基づいた主観的なアプローチにすぎません。担当者が顧客の気持ちを推測するだけでは、表層的な理解にとどまり、本当の意味で顧客の課題を捉えることは難しいのです。

一方、「顧客起点」とは、購買データや利用状況、カスタマーサポートへの問い合わせ内容といった客観的な事実に基づいて事業判断を行う姿勢を意味します。顧客の行動をデータとして分析し、そこから統計的に裏付けられた根拠をもとに意思決定を行うことで、再現性のある成功が可能となります。例えば、製品を「どう使っているか」という利用実態を継続的に計測すれば、単なる仮説ではなく現実に基づく改善策を打ち出せます。

特に新規事業は「提供者目線」に陥りやすく、「作れば売れる」という過去の成功体験に縛られるリスクがあります。しかし現代の市場では、顧客の生活全体に寄り添う視点が欠ければ競争力を失うのは時間の問題です。経済産業省の「中小企業白書」でも、新規事業を成功させた企業の約65%が「顧客ニーズへの対応」を重視していたと報告されています。これは、顧客起点こそが新規事業の持続的成長を左右する決定的要素であることを裏付けています。

このように、顧客視点は想像の領域にとどまりますが、顧客起点はデータを起点とした科学的思考です。両者を混同せず、確固たる基盤の上で新規事業を進めることが、第一歩として欠かせないのです。

消費価値の変化と日本企業が直面する新規事業の失敗要因

現代社会では、顧客が製品そのものの「モノ」を所有することに価値を見出す時代から、それを通じて得られる「コト=体験」に価値を求める時代へと移行しています。例えば、車を「所有すること」よりも「移動を快適に楽しむこと」や「必要なときに利用できる利便性」に価値を置く消費者が増加しています。この価値観の変化は、サブスクリプション型サービスやシェアリングエコノミーの拡大にも表れています。

しかし、多くの新規事業は依然として「作れば売れる」という発想に縛られており、この変化を捉えられないまま失敗に至るケースが後を絶ちません。失敗要因の第一位に挙げられるのは、顧客ニーズの見極め不足によるミスマッチです。市場調査会社ソフィアの分析でも、大企業の新規事業が頓挫する理由の多くは「自社都合の優先」と「表面的なニーズ把握」に起因していると指摘されています。

具体的な事例として、ユニクロを展開するファーストリテイリングが手掛けた生鮮野菜販売事業「SKIP」が挙げられます。この事業は「低価格・高品質」という同社の強みを野菜に応用しようとしましたが、結果的に顧客に受け入れられませんでした。理由は「安くても欲しい商品が欠品している店」という体験が、消費者にとって不満だったからです。ここでは「顧客体験」への理解不足が失敗を招いた典型例となりました。

一方で成功している企業は、顧客が抱える「ないと困る」レベルの課題を起点に事業を組み立てています。経済産業省の調査によれば、新規事業を「危機回避の手段」とした企業の多くは失敗しており、逆に「顧客課題の解決」という能動的理由から始めた企業は成果を上げています。つまり、新規事業の成否は「どの視点から市場を見るか」で決まるといっても過言ではありません。

このように、消費価値の変化と日本企業の失敗事例を見れば、顧客起点マインドセットの必要性は明白です。事業アイデアを出発点にするのではなく、顧客が求める体験や解決すべき課題を出発点とすることが、持続的な成長への最短ルートなのです。

JTBD理論と潜在ニーズの洞察:顧客の「片づけるべき用事」を捉える

新規事業の多くは、顧客の表面的な「欲しいもの」や流行を追う傾向にあります。しかし、それでは一時的な需要しか満たせず、長期的な成功にはつながりません。そこで注目されるのが「Jobs to be Done(JTBD)理論」です。JTBDは「顧客は、片づけるべき用事を果たすために製品やサービスを“雇う”」という考え方に基づいています。

例えば、美容スチーマーを購入する顧客は、単に美顔器を所有したいのではなく、「乾燥肌を改善し、自信を持ちたい」というジョブを片づけるためにその製品を選んでいる可能性があります。この視点に立つと、製品の機能改善だけでなく、利用シーンや顧客の達成したいゴールまでを含めた価値提供が必要になります。

潜在ニーズの洞察は、アンケートやヒアリングだけでは十分に把握できません。顧客自身も言語化できていない深層欲求を探るためには、以下のようなアプローチが効果的です。

  • 行動観察による生活文脈の理解
  • 共感マップを活用した感情や行動の可視化
  • 将来の目標から逆算して課題を推定する方法

特に「共感マップ」は、顧客の思考・感情・行動を6つの切り口で整理する手法として知られています。顧客が「見ているもの」「聞いていること」「考えていること」「感じていること」などを整理し、そこから「痛み」と「得られるもの」を抽出することで、表面的な要望に左右されず、本質的なジョブを特定できます。

このように、顧客が片づけたいジョブを捉えることは、競合との差別化だけでなく、イノベーションの源泉にもなるのです。トレンドを追うのではなく、顧客の「なぜそれを求めるのか」という根源的な動機を起点に事業を構想することが、成功の確率を大きく高めます。

デザイン思考とリーンスタートアップの活用で「0→1→10」を実現する

顧客のジョブを把握しても、それをどのように事業に落とし込むかが課題となります。ここで役立つのが「デザイン思考」と「リーンスタートアップ」という二つの手法です。両者は対立するものではなく、新規事業のフェーズごとに補完し合う関係にあります。

デザイン思考は、顧客の潜在ニーズを深く理解し、そこから創造的な解決策を導くプロセスです。共感・問題定義・アイデア創出・プロトタイプ・テストという5つのステップで構成され、特に「共感」フェーズが重視されます。実際に現場で顧客を観察し、行動や感情を捉えることで、真の課題を特定できるのです。プロダクトデザイナーの深澤直人氏も「デザイン思考は頭で考えることではなく、現場で手を動かすこと」と指摘しており、日本企業にありがちな誤解を正す必要があります。

一方で、リーンスタートアップは、アイデアを最小限の形(MVP:Minimum Viable Product)で市場に投入し、顧客の反応をデータで検証する手法です。特徴は「構築-計測-学習」のサイクルを高速で回すことにあります。顧客の反応が想定と異なる場合は「ピボット(方向転換)」を行い、早期に市場適合性(PMF)を確認します。

両者の役割を整理すると次のようになります。

項目デザイン思考リーンスタートアップ
得意なフェーズ0→1(アイデア創出)1→10(市場検証・拡大)
出発点顧客の共感価値仮説・成長仮説
成果物課題定義・革新的なアイデア市場で検証済みのプロダクト

このように、デザイン思考が「生き残る可能性の高い卵を選ぶ」段階を担い、リーンスタートアップが「その卵を孵化させる」段階を担うと表現できます。両者をバランスよく活用することで、新規事業は単なるアイデア止まりではなく、持続可能な成長軌道に乗ることが可能となります。

データとAIが拓く顧客理解の未来:定量と定性の融合

新規事業の成功を左右するのは、顧客理解の深さです。従来はアンケートや営業担当者の経験に頼る部分が多くありましたが、近年はデータ分析とAIの進化によって、そのアプローチが飛躍的に進化しています。特にデータドリブンな意思決定は、勘や主観に依存せず再現性のある成果をもたらす点で注目されています。

経済産業研究所の報告によれば、データ活用を積極的に行う企業はそうでない企業に比べ、売上成長率が平均で2倍以上高いとされています。顧客接点から得られるログデータや購買履歴、サポートへの問い合わせ内容を分析すれば、潜在的な不満やニーズを定量的に把握できるのです。

AIの導入により、さらに高度な顧客理解が可能になりました。例えばパーソナライゼーションの分野では、AIが個人ごとの行動履歴や嗜好を学習し、最適な商品提案や情報提供を自動化します。これにより、従来の「セグメント単位」から「一人ひとり」に寄り添うマーケティングが実現しました。

また、AIはリアルタイムで消費者の意図を読み取る「インテントマーケティング」を可能にしています。検索クエリやSNSの発言から「今この瞬間に何を求めているのか」を予測し、適切なメッセージを届けることで、顧客体験の質を高められるのです。

さらに、生成AIの登場は営業現場の効率化にも貢献しています。議事録作成や顧客対応のシナリオ設計を自動化することで、担当者はより付加価値の高い活動に集中できるようになります。これにより、デザイン思考で重視される「共感」と、データドリブンの「分析」が融合し、人間の感性とテクノロジーの両輪で顧客理解が深化する時代が到来しています。

行動経済学の知見を応用した顧客心理の読み解き方

顧客の意思決定は、必ずしも合理的なものではありません。価格や機能が優れていても、購買につながらないケースがあるのはそのためです。そこで有効なのが、行動経済学の知見を活用したアプローチです。これは人間の心理的バイアスを理解し、実際の購買行動を科学的に説明する手法として注目されています。

代表的な心理効果には、以下のようなものがあります。

  • アンカリング効果:最初に提示された価格や情報が基準となり、判断に影響を及ぼす
  • サンクコスト効果:すでに投資した時間や費用に執着し、合理性を欠いた選択をする
  • 希少性バイアス:「数量限定」や「期間限定」といった表現が購買意欲を高める

こうした心理効果は、マーケティングや新規事業戦略に組み込むことで大きな成果を生み出します。実際に、消費者心理を踏まえた販売施策は、従来施策と比べて成約率が20〜30%向上するケースも報告されています。

行動経済学を応用することで、データ分析では見えない「なぜその行動を取ったのか」を理解できます。たとえば、あるECサイトで高価格商品が売れやすいのは、低価格商品を「見せ玉」として提示していたからかもしれません。このような仕掛けを設計することは、顧客起点のマーケティング戦略に直結します。

重要なのは、心理的バイアスを利用することが顧客の利益にもつながるよう設計することです。顧客が本当に必要な商品やサービスを選びやすくするために行動経済学を活用すれば、短期的な売上だけでなく、長期的な信頼関係の構築にも寄与します。

つまり、行動経済学はデータの「何が起きたか」を補完し、「なぜ起きたのか」を解明するための強力な武器なのです。新規事業においても、この知見を活用することで、より精度の高い顧客理解と戦略立案が可能になります。

日本企業の成功・失敗事例に学ぶ顧客起点の重要性

理論やフレームワークを理解するだけでは、新規事業を成功に導くことはできません。実際の企業事例を通じて、顧客起点マインドセットが持つ力を確認することが重要です。特に、日本企業の失敗と成功の対比は、学びを深める上で有効です。

失敗事例:自社都合の優先が招いた撤退

ファーストリテイリングが展開した生鮮野菜販売事業「SKIP」は、新規事業の典型的な失敗例です。ユニクロの「低価格・高品質」の強みを野菜販売に応用しましたが、顧客は「高品質でも欲しい商品が欠品している店」に魅力を感じませんでした。結果的に、顧客体験よりも自社の効率性を優先したことが敗因となりました。

また、セブンイレブンの「生ビール販売事業」も、未成年飲酒や飲酒運転といった外部リスクを考慮しきれず、社会的批判を受けて中止されました。顧客理解の不足や外部環境の無視は、大企業であっても新規事業の失敗につながるのです。

成功事例:顧客を共創者に変えたアプローチ

一方で、顧客起点を徹底した成功事例もあります。ベースフード株式会社は、完全栄養食の開発にあたり顧客コミュニティを活用しました。顧客が自らレシピや体験を共有し合う仕組みをつくることで、製品改善のヒントを得るだけでなく、顧客の定着率やLTV(顧客生涯価値)を高めることに成功しました。

カルビーが展開した「Calbee Digger」プロジェクトも顧客起点の好例です。顧客の声を製品開発に反映し、「素材感のあるグラノーラ」を実現しました。これは単なる商品開発ではなく、顧客との共創によって新しい市場を切り拓いた実例です。

これらの事例が示すのは、顧客を「消費者」として扱うのではなく、「共創者」として迎え入れる姿勢が新規事業の成功を左右するということです。顧客起点マインドセットは単なる理論ではなく、現場での実践によって成果を生む経営基盤なのです。

カスタマーサクセスが新規事業の持続的成長を支える理由

新規事業は立ち上げがゴールではなく、その後の持続的な成長が最大の課題となります。ここで注目されるのが「カスタマーサクセス(Customer Success:CS)」の考え方です。従来の「顧客獲得重視」から脱却し、顧客が期待する成果を達成できるよう支援する取り組みが不可欠となっています。

サブスクリプション時代の必須戦略

SaaSやサブスクリプション型ビジネスの拡大により、企業は契約獲得後も顧客を成功に導かなければ解約リスクに直面します。米国の調査によれば、CSを体系的に導入した企業は、解約率が平均で25%以上改善し、LTVが大幅に向上しています。これは、CSが収益安定化の鍵となることを示しています。

CSがもたらす三つの効果

  • 顧客の成功を支援することで解約率を低減
  • 顧客データを活用し、製品改善や新規機能開発に反映
  • LTV向上とCAC(顧客獲得コスト)削減を同時に実現

CSは単なるサポート部門ではなく、プロダクト開発やマーケティングとも密接に連携するべき存在です。顧客の利用状況やフィードバックを収集・分析することで、プロダクトの改善速度が加速し、PMF(プロダクト市場適合)の維持にもつながります。

新規事業における導入手順

  1. CS導入の目的を明確化(LTV向上や解約率改善など)
  2. サクセスロードマップを策定し、顧客ごとの成功体験を設計
  3. KPIを設定(例:ヘルススコアや利用率など)
  4. 部門横断での連携体制を構築

これらを実行することで、CSは「顧客の成功体験」と「企業の持続的成長」を同時に実現する仕組みになります。新規事業こそ、初期段階からCSを組み込むことで成長の基盤を固められるのです。