新規事業開発は、企業が持続的に成長し続けるために欠かせない挑戦ですが、その成功率は驚くほど低いことが知られています。中小企業白書によると、日本企業の10年後の生存率はわずか6.3%にまで低下し、ある分析では新規事業の成功確率は7%程度に過ぎないとも指摘されています。こうしたデータは、失敗が単なる偶然や経営者の資質の問題ではなく、根深い構造的課題に起因していることを示しています。

その背景には、短期的な成果を強く求める圧力が存在します。経営者は投資家や株主、さらには市場環境からのプレッシャーに直面し、つい目先の成果を優先してしまいます。さらに、認知バイアスや「イノベーションのジレンマ」といった理論が示す通り、合理的な意思決定であっても長期的成長を阻害する結果を招くことがあります。

しかし、未来を見据える企業にとって、新規事業を立ち上げることは避けられない必須要件です。既存事業はいずれ成熟や衰退に向かうため、長期的な視点で新しい柱を築く取り組みが欠かせません。本記事では、新規事業開発の成功率を高めるために不可欠な「戦略的忍耐力」に焦点を当て、その重要性や具体的な実践方法を解説します。

新規事業開発の厳しい現実と長期視点の必要性

新規事業開発は企業にとって成長の源泉であり、既存事業の衰退を補うためにも避けて通れない活動です。しかし現実には、その成功率は決して高くありません。日本において企業全体の5年後の生存率は81.7%と比較的高いものの、新規事業に近いベンチャー企業では創業10年後の生存率がわずか6.3%まで低下しています。さらに、一部の調査では新規事業の成功確率は約7%にとどまるとされ、極めて厳しい状況であることが浮き彫りになっています。

この背景には、既存事業が必ず成長期から成熟期、そして衰退期へと進むというプロダクトライフサイクルの宿命があります。どれほど堅調な事業であっても、いずれは市場環境や技術革新の波に飲み込まれてしまいます。そのため企業は、常に新しい収益源を模索し続けなければならないのです。

加えて、現代の資本市場は四半期ごとの業績評価を重視しがちで、経営者に短期的成果を求める圧力をかけています。これは新規事業開発にとって逆風となります。新しい事業は市場浸透や収益化に時間を要し、すぐに成果が表れるわけではありません。そのため、短期的な視点にとらわれると長期的な成功の芽を摘み取ってしまう危険性が高まるのです。

実際に、日本の研究開発投資はこの15年間ほぼ横ばいで推移しており、米国やEU諸国が大幅に投資を拡大しているのと対照的です。データは、日本企業が長期的投資を軽視し、目先の収益確保に傾きがちである実態を示しています。

つまり、新規事業開発は単なる選択肢ではなく、企業が持続的に生き残るための必須条件です。そしてその前提には、短期成果を追い求める姿勢を抑え、長期視点に立った「戦略的忍耐力」を育むことが欠かせません。

短期主義を生む要因:イノベーションのジレンマと認知バイアス

なぜ企業は新規事業において長期視点を維持できず、短期的な成果を優先してしまうのでしょうか。その大きな要因の一つが、ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が提唱した「イノベーションのジレンマ」です。この理論は、合理的な経営判断が結果的に革新的な技術や市場機会を見過ごす罠になることを示しています。

企業は既存顧客の要求に応え、利益率の高い持続的イノベーションに集中する傾向があります。その一方で、当初は市場規模が小さく利益率も低い破壊的イノベーションへの投資を軽視してしまいます。しかし破壊的技術が成長し主流市場を侵食し始めた時には、既存企業はすでに対応が遅れ、競争力を失ってしまうのです。日本の半導体産業が水平分業への移行に遅れた事例は、この典型例と言えるでしょう。

さらに、経営者自身の心理的バイアスも短期主義を加速させます。代表的なのが「現在志向バイアス」と「損失回避」です。現在志向バイアスは将来の大きな利益よりも、目先の小さな利益を優先してしまう傾向を指します。行動経済学の研究では、人間は「1年後の200万円」よりも「今すぐの100万円」を選びやすいとされ、これは新規事業の長期投資判断にも強く影響します。

一方、損失回避は同額の利益と損失を比較したとき、人は損失の痛みを約2倍も強く感じるという特性です。新規事業は失敗リスクが高いため、経営者は損失を恐れて挑戦を避けがちになります。その結果、挑戦を回避した企業は長期的な成長機会を逃し、逆に競争力を失うという逆説に陥ります。

このように、合理的な判断をしているつもりでも、構造的要因と人間心理の両面から短期主義に引き込まれる仕組みが働いています。したがって新規事業を成功させるには、この罠を認識し、あらかじめ克服するための仕組みを設計する必要があるのです。

日本企業特有の構造的圧力と停滞の実態

新規事業開発が短期主義に傾きやすい背景には、理論や心理だけでなく、日本企業特有の構造的な要因が存在します。資本市場、ガバナンス体制、経営者の任期制度などが複雑に絡み合い、長期視点を阻害する圧力を強めているのです。

まず資本市場からの圧力です。かつて日本企業は「長期的な視点を持つ」と評価されてきましたが、現在は四半期業績に強く左右される傾向が顕著です。アナリストの関心は短期的な利益予測に集中し、長期的な研究開発や無形資産への評価は後回しにされがちです。さらに、インデックス投資の普及により個別企業の分析が浅くなり、投資家自身も短期的な株価変動に敏感に反応せざるを得ない状況に置かれています。

次にコーポレート・ガバナンスの仕組みです。日本の経営者の任期は比較的短く、2期4年や6年で交代するケースが多いとされています。その結果、経営者は自身の任期中に成果を出せる事業に注力し、10年以上先に成果が見込める新規事業には及び腰になる傾向が強まります。加えて、ストックオプションのような短期的株価に連動した報酬制度が広がることで、経営者のインセンティブも短期志向に引き寄せられてしまいます。

この構造的圧力は研究開発投資の停滞にも如実に表れています。経済産業省の調査によれば、米国やEU諸国、韓国が2000年代以降に研究開発費を大幅に増やしているのに対し、日本企業は絶対額も売上比率も横ばいが続いています。例えば2020年時点で、米国の大手企業が数兆円規模で研究開発を増加させたのに比べ、日本企業の投資額は限定的でした。この差は、新規事業開発に対する長期的な姿勢の違いを如実に示しています。

つまり、日本企業を取り巻く「資本市場」「経営者の任期」「報酬制度」という制度的な仕組みが相互に作用し、長期投資を軽視させる強固な短期主義のシステムを形成しています。この負のスパイラルを断ち切らなければ、未来の成長機会をつかむことは難しいのです。

両利きの経営が示す戦略的忍耐力の設計図

短期主義の罠を克服するための有効な処方箋として、経営学が提示するのが「両利きの経営(Ambidextrous Management)」です。スタンフォード大学のチャールズ・オライリー教授とハーバード大学のマイケル・タッシュマン教授によって提唱されたこの理論は、既存事業の効率化と新規事業の探索を同時に追求することが持続的成長の鍵であると説いています。

両利きの経営が重視するのは「知の深化(Exploitation)」と「知の探索(Exploration)」の両立です。深化は既存事業の改善や効率化を通じて安定収益を確保する活動であり、一方の探索は新たな技術や市場を追求し、将来の成長の種を見つける活動です。企業が失敗しやすいのは、この二つの活動が異なる文化や評価基準を必要とするため、どちらかに偏ってしまうからです。

両利きの経営を実現するためには、組織構造の意図的な設計が不可欠です。代表的な手法が「組織的な分離」です。探索を担う新規事業ユニットを既存事業の文化や評価基準から切り離し、独自のプロセスと文化を持たせることで、既存事業の「免疫反応」によって新しい芽が摘み取られるのを防ぎます。

ただし分離は孤立を意味しません。トップマネジメントが両者を統合し、資源配分や方向性を調整する必要があります。深化と探索のバランスを戦略的に管理することが、企業全体の持続的成長を左右するのです。

さらに、評価指標の違いも重要です。既存事業はROIや利益率といった指標で測られる一方、新規事業は「学習の進捗」「仮説検証の数」「オプションの創出」といった未来志向の指標で評価すべきです。

このように両利きの経営は、短期的な成果を求める合理的な圧力に対抗する「戦略的忍耐力」を組織的に実装する設計図と言えます。実際に富士フイルムやリクルートといった企業が、この理論を応用することで持続的な成長を実現しており、現代企業にとって実践的かつ有効なフレームワークとなっています。

富士フイルム・キーエンス・リクルートに学ぶ成功の実践知

新規事業開発における戦略的忍耐力は、理論だけでなく実際の企業事例においてこそ、その重要性が鮮明に示されます。ここでは富士フイルム、キーエンス、リクルートという3社の成功事例を取り上げ、それぞれがどのように長期的視点を組織に根付かせてきたのかを見ていきます。

富士フイルムの事業転換

2000年代初頭、写真フィルム市場の急速な縮小は富士フイルムの存続を揺るがしました。同社は大規模なリストラクチャリングで既存事業を縮小する一方、長年培ったコア技術を活用し化粧品や医薬品、再生医療分野など新市場に挑戦しました。

写真フィルムの化学技術を応用する形で、アスタリフト化粧品や液晶パネル用フィルムなど新規事業を次々と立ち上げたのです。これは短期的な利益に固執せず、長期的研究投資を粘り強く続けた結果であり、戦略的忍耐力の象徴的な事例といえます。

キーエンスの仕組み化された忍耐

キーエンスは高収益企業として知られますが、その背景にはプロセス重視の評価制度があります。営業担当者は売上高だけでなく訪問件数や提案内容といった行動指標で評価され、特に若手社員は行動プロセスに重点が置かれます。これにより、短期的成果に偏らず長期的に価値創造へつながる活動が奨励されています。忍耐を個人任せにするのではなく、組織制度として仕組みに組み込んでいる点が大きな特徴です。

リクルートの「Ring」制度

リクルートは40年以上続く新規事業提案制度「Ring」を通じて、全社員が事業アイデアを提案できる仕組みを持っています。採択されたアイデアは段階的な資金提供と専門家の伴走支援を受けながら育成されます。この制度はボトムアップ型で挑戦を継続的に生み出す文化を育み、忍耐強い資本を供給する役割を果たしています。

これら3社に共通するのは、忍耐力を精神論で語るのではなく、制度やプロセスに落とし込み、組織全体に定着させた点です。長期的視点を持つリーダーシップ、プロセス評価を重視する仕組み、そして従業員全員が参加できる制度。いずれも戦略的忍耐力を育むための実践知として学ぶべきものです。

日の丸半導体にみる忍耐欠如の代償

一方で、戦略的忍耐力を欠いた結果として大きな失敗に至った事例も少なくありません。その代表格が「日の丸半導体」の凋落です。1980年代に世界市場を席巻した日本の半導体産業は、わずか数十年で競争力を失い、現在では韓国や台湾、米国企業の後塵を拝する状況となっています。

破壊的イノベーションへの対応遅れ

当時の日本企業は設計から製造までを自社で担う垂直統合モデルに強みを持っていました。しかし、市場が水平分業へ移行し、ファブレス(設計専業)とファウンドリ(製造専業)の協業が主流になると、この変化への適応に失敗しました。既存モデルに固執し、長期的視点から新しいビジネスモデルに投資する忍耐を欠いた結果、市場競争で取り残されたのです。

短期的成功体験の呪縛

日本の半導体産業は過去の成功体験にとらわれ、新たな成長シナリオを描くことを怠りました。加えて、巨額の研究開発や製造設備投資が必要な時期に、国家レベルでも長期的戦略が不十分だったと指摘されています。結果として、技術力は持ちながらも市場構造の変化に適応できず、世界シェアを大きく失いました。

現代への教訓

この失敗から学べるのは、長期的な変化を見据えた戦略的投資と忍耐力がなければ、いかに強い産業であっても衰退するという事実です。新規事業開発でも同様に、目先の利益にとらわれて変化に対応する投資を怠れば、将来的に大きな代償を払うことになります。

日の丸半導体の事例は、成功が永続するものではなく、むしろ成功体験が新しい挑戦を妨げるリスクになることを教えてくれます。新規事業開発の現場においても、この教訓を活かし、忍耐を組織的に仕組み化することが求められているのです。

戦略的忍耐力を育むための組織デザインと文化の醸成

新規事業開発における成功の鍵は、戦略的忍耐力を単なる精神論ではなく「仕組み」として組織に組み込むことです。短期的な業績圧力に流されないためには、経営層のリーダーシップ、組織構造、人材評価制度、そして文化の醸成という複数の側面から取り組む必要があります。

経営層が担う役割

経営層は長期的なビジョンを明確に示し、社内外に対して粘り強く発信し続ける必要があります。経済産業省の報告によれば、日本企業は依然として研究開発投資において米国やEUに後れを取っています。これはトップマネジメントが短期成果を優先しがちな構造を示しており、経営層が「忍耐強い資本」を確保し、探索活動の専用予算を短期的なROI圧力から切り離すことが重要です。

組織構造の工夫

両利きの経営の考え方を応用し、探索ユニットを既存事業部門から分離しつつ、経営層のもとで統合する仕組みが有効です。新規事業チームには学習や仮説検証を重視したKPIを導入し、既存事業と異なる基準で評価することが求められます。これにより、失敗が事業撤退ではなく「学び」として評価される文化を根付かせることができます。

表:既存事業と新規事業の評価基準の違い

項目既存事業新規事業
評価指標ROI、利益率、市場シェア学習進捗、顧客検証数、オプション創出
投資方針安定した収益確保実験的投資、段階的資金投入
成果の捉え方即時的成果重視長期的価値創造の基盤

人材評価と文化の定着

戦略的忍耐力を持続させるには、人材評価の仕組みを変えることが不可欠です。キーエンスが行っているように、売上だけでなく顧客理解や提案活動といった行動プロセスを評価に組み込むことで、従業員が長期的価値創造に向けた努力を続けやすくなります。

また、リクルートの「Ring」に代表されるように、従業員が自発的にアイデアを提案し、挑戦できる制度を整備することは文化醸成に直結します。失敗を恐れず挑戦を続けられる環境を整えることで、組織全体に戦略的忍耐力が浸透していきます。

忍耐を文化に変える

重要なのは、戦略的忍耐力を一部の経営層の方針やプロジェクト単位の施策にとどめず、組織の価値観や日常の行動に落とし込むことです。プロセス評価の仕組みや挑戦を奨励する文化を通じて、忍耐は「個人の美徳」から「組織の能力」へと昇華されます。これこそが、長期的に持続可能な新規事業開発を実現するための土台となるのです。