現代のビジネス環境は、変動性・不確実性・複雑性・曖昧性を示す「VUCA」という言葉で表されるように、従来の安定的な成長モデルが通用しにくい時代となっています。特に日本においては、起業や新規事業に挑戦する文化が欧米と比べて弱く、失敗を恐れる意識が根強いと指摘されています。その結果、新規事業が中核事業へ成長する確率はわずか数%にとどまるという厳しい現実があります。
こうした環境では、緻密な計画や過去の成功体験に依存するだけでは不十分です。重要なのは、不確実性を脅威ではなく機会と捉え直し、柔軟かつ主体的に未来を創造していく姿勢です。そのためには、リスクと不確実性の違いを理解する理論的基盤、行動経済学に基づく意思決定の注意点、そして困難を乗り越えるための心構えが不可欠です。さらに、実践的なフレームワークを活用し、心理的安全性や両利きの経営といった組織的条件を整えることで、挑戦を成功へと導く確率を高めることができます。
本記事では、理論から実践、そして国内企業のケーススタディに至るまでを体系的に整理し、新規事業開発に取り組む方々が明日から使える知見を提供します。
不確実性と向き合う理由:VUCA時代に求められる新規事業の視点

現代のビジネス環境は「VUCA」と呼ばれる不確実性の時代に突入しています。これはVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った言葉で、将来の予測が困難になっている状況を指します。従来のように過去のデータを基にした計画や、確実性の高い市場に依存する経営手法では、もはや十分ではありません。
特に日本では、起業や新規事業に挑戦する文化が欧米に比べて弱いことが指摘されています。国際調査によれば、日本では「失敗に対する恐怖心」や「起業は望ましい職業ではない」と考える人の割合が他国よりも高く、挑戦を阻む社会的要因となっています。その結果、大企業が行う新規事業のうち、中核事業に成長するのはわずか4%程度という厳しい数字が報告されています。これは不確実性に対応する意思決定の難しさを端的に示しています。
しかし、この環境は必ずしも悲観的に捉える必要はありません。不確実性は「脅威」であると同時に「機会」でもあります。市場が変化する中で、新しいニーズや未開拓の分野が次々と生まれており、それを捉える企業こそが成長のチャンスを手にできます。例えば、デジタル技術やサステナビリティを起点とした新規事業は、不確実な状況だからこそ価値を生み出しやすい領域となっています。
新規事業開発の担当者は、VUCAの時代において「正解を探す」発想から、「試行錯誤を通じて学ぶ」姿勢へと転換することが求められます。従来の延長線ではなく、複数の未来を想定し、その中で最適な選択肢を模索し続けることが成功の鍵となります。
- VUCA時代では過去の延長で考えず、変化を前提とする
- 不確実性はリスクではなく、成長機会として捉える
- 試行錯誤を繰り返し、学習を積み重ねる姿勢が不可欠
このように、不確実性と正面から向き合い、柔軟な思考と行動を備えた組織や個人が、未来を切り開いていくのです。
リスクと不確実性の違いを理解する:フランク・ナイトの知見と現代的応用
新規事業開発を考える上で重要なのが、「リスク」と「不確実性」を区別する視点です。経済学者フランク・ナイトは1921年の著書で、リスクは確率分布が既知の事象、不確実性は確率分布そのものが未知の事象と定義しました。この区別は現在も新規事業を理解するうえで有効です。
表:リスクと不確実性の比較
特徴 | リスク | 不確実性 |
---|---|---|
定義 | 確率分布が既知 | 確率分布が未知 |
予測可能性 | 予測可能 | 予測不可能 |
情報 | 過去データが豊富 | データ不足・一度きりの事象 |
アプローチ | 計算・管理 | 柔軟性・適応力・実験 |
例 | 保険契約、品質管理 | 新市場参入、技術革新 |
リスクは過去の統計や経験から予測可能であり、保険やBCP(事業継続計画)のように管理が可能です。一方、不確実性は一度きりの事象であり、過去データが役立たないため、予測そのものが困難です。例えば、破壊的な技術革新や新しい市場の開拓は、不確実性の典型例です。
現代の新規事業は、この「不確実性」の中で意思決定を迫られます。管理可能なリスクに依存する発想から、不確実性を前提に適応力と俊敏性を重視する発想へと転換する必要があります。これは精緻な管理能力よりも、柔軟に試行錯誤できるマインドセットを重視することを意味します。
例えば、スタートアップがMVP(最小限の実用的製品)を市場に投入して顧客の反応を確認する手法は、不確実性への適応の代表例です。過去のデータが存在しない状況でも、実験を繰り返しながら学習し、意思決定を更新していくのです。
新規事業担当者に求められるのは、未来を完全に予測することではなく、予測不可能性を受け入れつつ前進する姿勢です。この考え方を軸に置くことで、不確実性は回避すべき脅威ではなく、新しい価値を生み出すチャンスとして捉え直すことができます。
行動経済学が示す意思決定の落とし穴:認知バイアスとその対策

不確実性が高い新規事業開発では、合理的に判断したつもりでも人間の心理的な偏りによって意思決定が歪められることがあります。行動経済学の研究は、こうした「認知バイアス」がどのように意思決定を誤らせるのかを解明してきました。新規事業担当者が自らの判断を正しく導くためには、この影響を理解し、仕組みとして対策を講じることが欠かせません。
代表的な認知バイアスには以下のものがあります。
認知バイアス | 新規事業における典型的な現れ方 | 対策 |
---|---|---|
確証バイアス | 自分の仮説を支持する情報だけを集め、否定的なデータを無視する | 「悪魔の代弁者」を設け、反証を意識的に探す |
サンクコスト効果 | 多額の投資を理由に撤退できず損失を拡大 | 「今ゼロから始めるなら投資するか」を常に問う |
正常性バイアス | 環境変化や競合の動きを過小評価する | 最悪のシナリオを想定して行動計画を準備する |
現状維持バイアス | 新しい挑戦よりも現状を優先する | 機会損失を数値化し「挑戦しないリスク」を可視化 |
プロスペクト理論は、人が「損失を避けたい」という心理から合理的ではない行動を取ることを示しました。例えば「1万円を得る喜び」よりも「1万円を失う痛み」を2倍以上強く感じるとされ、新規事業の投資判断では必要以上に慎重になりすぎる傾向を生みます。この損失回避性は、挑戦を避けて機会を失う大きな要因となり得ます。
また、人は確率を正しく扱えない傾向があります。低確率の事象を過大評価し、高確率の事象を過小評価することで、成功率が低い「一発逆転型」アイデアに過剰に期待したり、着実に成果が見込める取り組みを過小評価してしまうのです。
新規事業担当者は、認知バイアスを個人の問題と捉えるのではなく、組織的に制御する仕組みを整える必要があります。データに基づく意思決定を徹底する、多様なメンバーを加える、仮説を常に検証する、といった仕組みを設けることが有効です。
認知バイアスは避けられないものであるからこそ、仕組みとして乗り越える知恵が求められます。
不確実性に挑む個人の心構え:グリット・レジリエンス・ニュータイプ思考
不確実性が支配する環境では、知識やスキルだけでなく、個人の内面的な強さが事業の成否を大きく左右します。そこで重要となるのが「グリット」「レジリエンス」、そして「ニュータイプ思考」という3つの心構えです。
グリット:やり抜く力
心理学者アンジェラ・ダックワースが提唱したグリットは「情熱と粘り強さ」を意味します。新規事業は短期間で成果が出るものではなく、顧客の反応や失敗を糧に改良を続ける忍耐力が求められます。調査では、グリットの高い人材ほど成果を出す確率が高いことが示されており、知識や才能以上に重要視されています。
レジリエンス:逆境から立ち直る力
レジリエンスは困難や失敗からしなやかに回復し、再挑戦する力です。新規事業では資金調達の失敗や顧客からの厳しい反応が日常的に起こりますが、失敗を「学びの機会」として捉える姿勢が事業継続を可能にします。研究では、レジリエンスの高い組織や個人ほど長期的な成果を生み出す傾向が確認されています。
ニュータイプ思考:未来を構想する力
著述家の山口周氏が提唱する「ニュータイプ思考」は、未来を予測するのではなく構想する発想です。「世界はどうなるか」ではなく「自分たちは世界をどうしたいか」を問い、行動を積み重ねて未来を創造する姿勢が求められます。特に新規事業では、まだ誰も気づいていない課題を発見し、論理と直感をバランスよく組み合わせる力が必要です。
- グリットは長期的な挑戦を支えるエンジン
- レジリエンスは失敗から立ち直るサスペンション
- ニュータイプ思考は未来を描く航法システム
この3つが揃うことで、不確実性は恐れる対象から、むしろ挑戦を通じて新しい価値を創造する舞台へと変わります。
不確実性を乗りこなす力は、特別な才能ではなく心構えの総合力に支えられています。
実践的フレームワークの活用:エフェクチュエーション、リーン、デザイン思考、OODA

不確実性が高い環境では、従来のように長期計画を策定してから実行する「予測型」のアプローチだけでは成果を上げにくいです。そのため、新規事業開発では不確実性を前提にした「創発型」のフレームワークを活用することが重要になります。代表的なアプローチとして、エフェクチュエーション、リーンスタートアップ、デザイン思考、OODAループが挙げられます。
フレームワーク | 特徴 | 活用シーン |
---|---|---|
エフェクチュエーション | 手中の資源を基点に未来を共創する | 初期段階の事業アイデア形成 |
リーンスタートアップ | MVPを用いた実験で仮説検証 | プロダクト市場適合性の確認 |
デザイン思考 | 顧客理解を基盤に発想・試作・検証 | 潜在ニーズの発見と製品開発 |
OODAループ | 観察・判断・行動の高速サイクル | 不確実な競合環境での戦略立案 |
エフェクチュエーションは、米国のサラス・サラスバシー教授が提唱した理論で、企業家が未来を予測するのではなく、自らの資源やネットワークを活用して未来を「創り出す」思考法です。日本企業では、大企業内の新規事業部門でも既存の資源を基盤に小規模実験を繰り返す事例が増えています。
リーンスタートアップはエリック・リースが提唱し、MVP(最小限の実用的製品)を市場に出して顧客の反応をもとに学習し、改善を繰り返す方法です。トヨタの生産方式に着想を得ており、日本企業にも親和性が高いとされています。
デザイン思考はスタンフォード大学が体系化したもので、顧客の共感を起点に、アイデア創出、プロトタイピング、テストを短いサイクルで行います。NECや富士通といった大手企業も、社内の新規事業育成に導入しています。
OODAループは米国空軍のジョン・ボイド大佐が提唱した意思決定モデルで、「Observe(観察)」「Orient(状況判断)」「Decide(意思決定)」「Act(行動)」を繰り返すことで、変化に俊敏に対応する考え方です。競争が激しいIT業界やスタートアップの現場では、この迅速な意思決定の枠組みが有効です。
不確実性下では、一つのフレームワークに固執するのではなく、状況に応じて複数を組み合わせる柔軟性が成功のカギとなります。
組織がイノベーションを生む条件:心理的安全性と両利きの経営
個人の能力やフレームワークだけでは、新規事業は継続的な成果を生み出せません。組織としてイノベーションを推進するためには「心理的安全性」と「両利きの経営」という二つの条件が欠かせません。
心理的安全性は、ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授が提唱した概念で、「メンバーが自分の意見や失敗を安心して共有できる雰囲気」を指します。Googleが行った「プロジェクト・アリストテレス」の調査でも、チームの成功要因として最も重要なのが心理的安全性であると報告されています。新規事業では、失敗や意見の対立が前提となるため、この環境がなければ挑戦そのものが萎縮してしまいます。
一方で、両利きの経営は、既存事業を効率的に深める「深化」と、新しい領域に挑戦する「探索」を両立させる戦略です。東京大学の野中郁次郎教授らの研究や欧米企業の事例では、両利き経営を実践する企業ほど長期的な競争優位を築きやすいとされています。
具体的な実践例として、富士フイルムは写真フィルム市場の縮小に直面した際、既存の技術資産を活用しながら化粧品や医療分野へ進出しました。これは「深化」と「探索」を並行させた代表的な両利き経営の成功事例です。また、リクルートも既存の人材紹介ビジネスを維持しつつ、デジタル領域で新規事業を積極的に育成してきました。
- 心理的安全性がある組織は挑戦と失敗を歓迎する
- 両利きの経営は安定と成長を同時に実現する
- 成功事例は資源を活かしながら新分野を切り開く
組織がイノベーションを生むためには、個人の努力だけではなく、挑戦を許容し支える文化と構造が不可欠です。
ケーススタディで学ぶ成功と失敗:富士フイルム・ワークマン・リクルートからの教訓
不確実性の高い環境において新規事業を成功させるためには、理論だけでなく具体的な事例から学ぶことが欠かせません。ここでは、日本を代表する企業がどのように不確実性に対応し、新規事業を成功へと導いたのか、またどのような失敗を経て学びを得たのかを紹介します。
富士フイルム:衰退市場からの脱却
富士フイルムは、写真フィルム市場の急激な縮小という逆風に直面しました。従来のビジネスに固執していれば衰退は避けられなかったはずですが、同社は持っていた化学技術や素材技術を医療、化粧品、バイオ分野に応用しました。
その結果、写真フィルム事業の縮小を補い、新たな収益源を確立することに成功しました。この事例は「両利きの経営」を体現した好例であり、不確実性を機会に変えた代表的な事例として知られています。
ワークマン:データと顧客理解を軸にした新展開
作業服専門店として知られていたワークマンは、新たに「ワークマンプラス」を展開することでアウトドア・スポーツ市場へ参入しました。既存の強みである高機能・低価格を維持しつつ、一般消費者のニーズを掴むためにデータ分析とテストマーケティングを繰り返しました。
特に、販売現場から吸い上げた顧客の声を迅速に商品開発へ反映させる体制が成功の要因となりました。この事例は、リーンスタートアップやデザイン思考を組み合わせた実践的アプローチの好例といえます。
リクルート:失敗を許容する文化が生む挑戦
リクルートは、多数の新規事業を立ち上げては撤退を繰り返す企業として知られています。同社は「失敗しても評価される文化」を醸成しており、挑戦が次の挑戦を生み出す循環を作っています。例えば、ある新規事業が短期間で終了しても、
そこで得られた知見は次のプロジェクトに引き継がれ、組織全体の学習効果として蓄積されます。この心理的安全性の高さこそが、SUUMOやAirレジといったヒットサービスを生み出す土台となっています。
成功と失敗から導かれる教訓
これらの事例から導かれる教訓は明確です。
- 富士フイルム:既存資産を横展開する柔軟さが重要
- ワークマン:顧客の声を基盤にデータ駆動で意思決定することが鍵
- リクルート:失敗を許容し学習する文化が挑戦を継続させる原動力
不確実性を前にしても諦めず、柔軟に戦略を更新し続ける企業こそが、次の時代を切り開いていくのです。