日本企業の新規事業成功率はわずか7%。この数字は、技術力や資金力の問題ではなく、「顧客との断絶」に起因しています。多くの新規事業が市場の期待に応えられずに終わる背景には、顧客理解の浅さ、部門間の分断、経営層のコミットメント不足という構造的課題が存在します。こうした状況を打破するための解決策として、今、世界的に注目されているのが「デザイン思考」です。
デザイン思考は、見た目の美しさを追求する手法ではなく、「人間中心」の視点から問題を再定義し、顧客の潜在的なニーズを発見する思考法です。そして、このアプローチを実践するデザイナー人材こそが、組織変革の触媒となります。
実際、マッキンゼーの調査では、デザイン主導型企業は平均より32%高い収益成長を実現し、Forresterの研究ではROIが300%を超えるという結果も報告されています。デザインはもはや感覚的な「センス」ではなく、戦略的な経営資源として機能しているのです。本記事では、デザイン思考を体現するデザイナーがどのように企業の新規事業を成功に導くのかを、最新データと国内外の事例を交えて解説します。
人間中心の発想が生む新しい価値創造の波

デザイン思考が注目される背景には、技術革新の加速や市場の多様化によって、従来の効率重視の経営モデルでは対応できない「複雑な人間の欲求」が顕在化していることがあります。かつて企業は性能や価格で差別化を図ってきましたが、現代の消費者は「どのような体験を得られるか」を重視しています。この変化を捉える鍵こそが、人間中心の発想に基づくデザイン思考なのです。
デザイン思考の根幹は、ユーザーの明示的な要望だけでなく、彼らが自覚していない潜在的なニーズを発見し、それに共感することから始まります。例えば、IDEO社は医療機器の改良プロジェクトで「患者の不安」を観察することから新しい手術用照明を開発し、医療現場のストレスを軽減しました。このように、観察と共感を通じて生まれる洞察は、単なる機能改良ではなく、体験そのものを再設計する原動力になります。
また、スタンフォード大学d.schoolの研究では、デザイン思考を導入したチームは従来型の問題解決手法と比べて33%高いイノベーション達成率を示したと報告されています。これは、ユーザー観察と試作・検証の反復により、組織が「失敗を学びに変える力」を得るためです。こうした文化が根づいた企業は、環境変化に対して柔軟に対応できる持続的な成長モデルを確立しています。
さらに、デザイン思考は組織内部にも変化をもたらします。部門ごとの縦割りを超え、マーケティング、開発、経営層が同じ課題を共有する「共創型チーム」を生み出すのです。日立製作所の「Exアプローチ」では、デザイナー・エンジニア・コンサルタントが一体となって顧客の課題を可視化し、複雑な社会課題に取り組んでいます。こうした実践は、デザインが経営や事業戦略の中心的な言語になりつつあることを示しています。
人間中心の発想は、単にユーザー視点を取り入れるだけでなく、企業そのものの思考様式を転換する契機となります。共感を起点に課題を再定義し、社会にとって意味ある価値を生み出す。この流れこそが、今世界中の企業が注目する「デザインドリブン・イノベーション」の波なのです。
デザイン思考の本質と5つのプロセス
デザイン思考は「人間中心イノベーションの設計手法」として体系化されており、特にスタンフォード大学d.schoolが提唱する5段階プロセスが広く活用されています。
フェーズ | 目的 | 主要手法 | 成果物 |
---|---|---|---|
共感(Empathize) | ユーザーの感情・行動・文脈を深く理解する | 観察・インタビュー・共感マップ | インサイト |
問題定義(Define) | 潜在的な課題を明確に言語化する | KJ法・ペルソナ設計 | 問題ステートメント |
発想(Ideate) | 解決策を広く発散させる | ブレインストーミング・スキャンパー法 | アイデア群 |
試作(Prototype) | アイデアを低コストで具現化 | モックアップ・ストーリーボード | プロトタイプ |
検証(Test) | 実際のユーザーに試してもらい改善 | ユーザーテスト・フィードバック分析 | 改善案 |
このプロセスの特長は、非線形で反復的であることです。共感から始まっても、テスト段階で新たな課題が見つかれば再び問題定義に戻る。この柔軟な往復運動が、変化の激しい市場環境での適応力を支えます。
例えば富士通は、全社的なデザイン経営プログラム「HXD(Human Centric Experience Design)」を導入し、社員1万人以上がこのプロセスを実践しています。顧客観察と迅速なプロトタイピングを繰り返すことで、システム提案型から共創型企業への転換に成功しました。
さらに、マッキンゼーの調査によれば、デザイン思考を継続的に実践する企業は収益成長率が平均32%高い傾向にあり、TRS(株主総利回り)でも56ポイント上回る結果を示しています。これはデザインが単なるクリエイティブ手法ではなく、経営成果を左右する重要な戦略資産であることを意味します。
このように、デザイン思考の5段階プロセスは、顧客理解・アイデア創出・実装検証のサイクルを高速で回すことにより、不確実性の高い新規事業開発を前進させる実践的なフレームワークなのです。
日本企業が直面する「イノベーションの罠」とデザイン経営の必要性

日本企業が「イノベーションの罠」に陥っていると指摘される背景には、長年にわたって培われてきた「改善文化」と「技術中心主義」があります。マッキンゼーの分析によると、日本企業はプロセスイノベーションの分野で世界的なリーダーでした。特にトヨタの生産方式に象徴されるように、品質向上や効率化を徹底的に追求する姿勢が日本のものづくりを支えてきました。
しかしこの強みは、現代の市場では新たな制約となっています。プロセスイノベーションは社内KPIを最適化する傾向が強く、外部の顧客視点が軽視されがちです。その結果、企業は「高品質だが顧客が望まない製品」を生み出し、グローバル市場での競争力を失いつつあります。これがいわゆる「イノベーションの罠」です。
経済産業省が提唱する「デザイン経営」宣言(2018年)では、この課題を打開する鍵としてデザインを経営戦略に統合することが明確に打ち出されました。デザイン経営の目的は、顧客起点の価値創造を経営の中心に据えることにあります。プロダクトやサービスの見た目を整えるだけでなく、顧客の体験を軸に事業そのものを再設計するのです。
たとえば、ソニーは「感動をつくる会社」への回帰を掲げ、製品開発にデザインセンターを深く関与させています。その結果、ウォークマンの再評価やPlayStationブランドの再成長につながりました。無印良品(良品計画)も、生活者の視点を中心に据えたデザイン戦略により、国内外で支持を獲得しています。
デザイン経営のもう一つの本質は、組織文化の変革にあります。社員一人ひとりが「顧客の立場で考える力」を養うことが、持続的なイノベーションの源泉となるのです。世界経済フォーラムの調査では、デザイン主導型企業は他社よりも収益成長率が32%高く、株主総利回りも56ポイント上回るとされています。
今、日本企業が再び世界で存在感を取り戻すためには、「作る」から「共に創る」へと発想を転換しなければなりません。その中核を担うのが、経営とデザインを橋渡しするデザイナーの存在なのです。
現代デザイナーの進化:UXからビジネスデザイン、そしてCDOへ
デザイン思考を実践するデザイナーの役割は、近年大きく進化しています。かつてのデザイナーは「使いやすいUIをつくる専門家」としての側面が強く、主に製品やサービスの最終段階で関与していました。しかし現在、彼らは新規事業創造の初期段階から経営戦略に深く関与し、「価値を設計する存在」へと変貌しています。
この変化を象徴するのが、UXデザイナーからビジネスデザイナー、そしてCDO(Chief Design Officer)への進化です。
デザイナーの役割 | 主な目的 | 主要スキル | 関与領域 |
---|---|---|---|
UXデザイナー | 使いやすさ・体験価値の向上 | ユーザビリティ・プロトタイピング | サービス設計・UI/UX |
ビジネスデザイナー | 顧客ニーズを事業価値に転換 | 市場分析・KPI設計・収益構造デザイン | 新規事業構想 |
CDO(最高デザイン責任者) | 企業全体にデザインを統合 | 経営戦略・ブランド統合・組織変革 | 経営・全社戦略 |
ビジネスデザイナーは、UXデザイナーが「この製品は使えますか?」と問うのに対し、「この製品を顧客は使いたいと思うか?」を探る専門家です。彼らはユーザー観察を通じて潜在的なニーズを掘り起こし、それを事業機会へと変換します。そのプロセスでは、マーケティング・ファイナンス・テクノロジーの知見を横断的に統合する力が求められます。
そして、この役割進化の頂点に立つのがCDOです。CDOは単にデザイン部門の責任者ではなく、経営チームの一員として企業活動全体にデザインの視点を統合する戦略責任者です。彼らは経営課題をデザインで可視化し、製品、広告、店舗体験、従業員の行動に至るまで一貫したブランド体験を設計します。
海外ではAirbnbのCDOアレックス・シュルツ氏がデザインを経営戦略の中核に据え、ユーザーエクスペリエンスを企業の成長エンジンに変えたことで知られています。日本でもパナソニックや富士通などがCDOを設置し、デザインを経営の根幹に据える動きを加速させています。
このように、デザイナーはもはや「ものをつくる人」ではなく、「未来を設計する人」へと進化しています。彼らの存在こそが、組織に顧客起点の思考を根づかせ、新規事業を持続的に成功へ導く原動力となるのです。
デザイン投資のROI:データが示す圧倒的な成果

デザイン思考やデザイン経営の効果は、感覚的な「創造性」だけに留まらず、明確な財務成果として裏付けられています。マッキンゼー、フォレスター、デザイン・マネジメント・インスティテュートなど、世界的な調査機関が発表した研究では、デザインを経営の中核に据える企業ほど高い成長率と株主利益を実現していることが示されています。
調査/指数 | 出典 | 主な成果 | 業種の傾向 |
---|---|---|---|
マッキンゼー・デザイン・インデックス(MDI) | McKinsey & Co. | 収益成長率 +32%、株主総利回り +56% | 医療技術、消費財、リテールなどで一貫 |
Total Economic Impact(TEI) | Forrester(IBM事例) | 投資対効果(ROI)300%以上、開発時間75%短縮 | デジタルプロジェクト全般 |
デザイン価値指数(DVI) | Design Management Inst. | S&P500を10年間で211〜219%上回る | デザイン主導型16社のポートフォリオ |
これらの結果は、デザイン投資が企業の財務指標に直接的なインパクトをもたらすことを証明しています。とくにフォレスターの調査では、デザイン思考を導入した企業は市場投入までの期間を半減し、ROIが3倍に達したという実証結果が得られました。これは、デザインが開発効率を高めると同時に、ユーザー理解の深化によって失敗リスクを減らしているためです。
また、公益財団法人日本デザイン振興会の国内調査によると、デザイン経営を積極的に導入している企業のうち、過去5年間で平均売上20%以上増加した企業の割合は12.4%に達しています。さらに、「自社にコアファンが多い」と回答した企業は71.2%、「従業員の愛着が高い」とした企業は23.8%と、財務成果に加え、非財務的な価値創造にも優れていることが分かります。
一方で、マッキンゼーの研究では、成果が顕著に現れるのはMDIスコアが最上位25%の企業のみであることも明らかになっています。つまり、デザインは「形だけ導入する」ものではなく、経営層主導で全社的に取り組んでこそ真価を発揮するのです。デザインを戦略的に継続投資することが、競争優位を長期的に確立する最も確実な道といえます。
国内事例で見るデザイン経営の実践と変革の手法
日本でも近年、デザイン経営を取り入れた企業が相次ぎ、組織改革と新規事業創出の両輪で成果を上げています。その代表的な成功例が富士通と日立製作所です。
富士通:全社DXを牽引する「Human Centric Experience Design」
富士通は「IT企業から共創型DX企業への転換」を掲げ、独自の方法論「Fujitsu HXD(Human Centric Experience Design)」を体系化しました。
このプログラムでは、顧客との共創ワークショップを通じて潜在的な課題を発見し、事業構想からプロトタイプ開発までを短期間で実現。現在では1万人以上の社員がデザイン思考を実践しており、顧客満足度と新規案件受注率が飛躍的に向上しています。
成果の背景には、以下の3つの要素があります。
- 経営層による「全社員デザイン思考化」宣言
- 各部門を横断するデザインリーダー育成プログラム
- 社内SNSを活用した共創文化の醸成
日立製作所:顧客との協創を生む「Exアプローチ」
日立製作所は、顧客との共創型事業開発を目的に「Exアプローチ」を導入しました。デザイナー、エンジニア、コンサルタントがチームを組み、社会課題を可視化して事業化する仕組みです。社会インフラや医療分野では、デザイン思考を活用した新規サービスが既存事業の売上を超える規模に成長した例もあります。
この取り組みでは、ビジネス課題を「ユーザーの体験課題」に翻訳し、意思決定を迅速化することが重視されています。結果として、社内における意思統一が進み、従来の受託型開発から「価値共創型ビジネス」への転換が実現しました。
デザイン経営の成功企業に共通するのは、トップダウンとボトムアップの融合です。経営層が理念を掲げ、現場が試行錯誤を重ねながら文化を根づかせる。その積み重ねこそが、企業のイノベーション力を継続的に高める原動力となっています。
AI時代とサステナブル社会におけるデザイナーの新たな使命
世界のデザイン潮流は、今まさに大きな転換期を迎えています。IDEOやfrog、Accentureなどの先進的な企業の未来予測レポートでは、デザインの役割が「プロダクト」から「社会システム」全体の設計へと進化していることが指摘されています。従来、デザイナーは製品やサービスの体験価値を高める存在でしたが、今後は環境、経済、文化を含む広範な社会課題に取り組む「システムデザイナー」へと変化していくのです。
生成AIとサステナビリティがもたらす変革
現代のデザインにおける最大の潮流は、「生成AI」と「サステナビリティ」の二軸です。AIはデザイナーを単なる作業者から解放し、より抽象的で戦略的な思考に集中させます。たとえば、生成AIを活用することでアイデア出しや試作のスピードが飛躍的に向上し、人間は創造の本質である“問いを立てる力”に専念できるようになります。
一方で、地球環境や社会的公正を重視するサステナブルデザインの考え方も急速に広がっています。企業は製品の循環性やエネルギー効率だけでなく、人々の幸福やコミュニティの持続性を含めた「全体最適のデザイン」を追求する時代に入りました。生成AIとサステナビリティは、いずれも「人間中心から地球中心へ」という新しい価値観の変化を示しているのです。
デザイナーの役割は「問題解決者」から「未来の構想者」へ
こうした変化の中で、デザイナーの役割も根本的に変わりつつあります。これまでのように特定の課題を解決するだけでなく、まだ存在しない社会のビジョンを描き、共感と対話を通じてその実現を導く存在が求められています。IDEO.orgが掲げる「Worlds Worth Building(価値ある世界を築く)」という理念は、この新しい使命を象徴しています。
この未来志向のデザイン(Futuring)は、未来予測・シナリオプランニング・エシカルデザインなどの手法を組み合わせ、人間と地球の共生を軸に新しい事業や社会制度を構想するアプローチです。AIを活用することで、人間がこれまで想像できなかった複雑な未来像をシミュレーションし、より豊かな意思決定が可能になります。
新規事業開発への示唆
新規事業開発においても、デザイン思考は単なるイノベーション手法から「未来を設計する哲学」へと進化しています。AIによる高速な検証と、デザインによる人間中心の洞察を組み合わせることで、企業は「持続可能かつ意味のある成長」を実現する新しい事業創出モデルを構築できるのです。
未来を見据えるデザイナーは、技術と倫理、効率と共感、個人と社会といった二項対立を超えて、新しい価値の均衡を描き出します。AI時代においてこそ、デザイン思考は「人間らしく未来を創る力」として、企業と社会の羅針盤であり続けるのです。