新規事業開発は、単なるアイデア勝負ではありません。技術の進化、社会課題の複雑化、顧客ニーズの多様化といった変化の波に対応しながら、数年にわたる不確実な立ち上げ期を乗り越える必要があります。その過程では、社内の理解不足やリソースの制約、現状維持バイアスといった心理的障壁に直面します。
こうした逆風を突破し、事業を前進させる原動力となるのが「情熱」です。情熱は、推進者自身のモチベーションを支えるだけでなく、周囲を巻き込み協力者を生み出す力を持ちます。さらに、脳科学や心理学の研究では、情熱はミラーニューロンやオキシトシンの分泌を通じて人に伝播することが明らかになっています。
つまり、情熱は感情論ではなく、再現可能な科学的メカニズムを備えた経営資源なのです。本記事では、新規事業担当者や起業志望者に向けて、情熱を科学的・実践的に捉え、組織を動かす力へと変えるための戦略とスキルを解説します。
情熱が新規事業に不可欠な理由と科学的根拠

新規事業開発は、既存事業の延長線ではなく、ゼロから価値を創造する挑戦です。多くの場合、収益が上がるまでに数ヶ月から数年かかり、その間は不確実性とプレッシャーにさらされます。さらに、社内では既存事業とのリソース争いや文化の不一致が起こり、推進者は孤立しやすい環境に置かれます。こうした状況を突破するために必要なのが情熱です。情熱は、困難な局面で自らのモチベーションを維持するだけでなく、周囲の人々を巻き込み協力者を生み出す原動力になります。
心理学の「期待価値理論」によれば、人の行動は「成功する可能性」と「その行動に感じる価値」の掛け算で決まります。情熱はこの「価値」を高め、周囲にとってその事業が魅力的で意義あるものであると感じさせます。さらに、研究では情熱が高い従業員はエンゲージメントが向上し、企業の生産性やイノベーション創出に直結することが明らかになっています。
要素 | 情熱の役割 |
---|---|
モチベーション | 長期の不確実性を耐えるエネルギーになる |
協力者獲得 | 共感を呼び、最初の協力者を生み出す |
エンゲージメント | 従業員の主体性と生産性を高める |
イノベーション | 新しいアイデアや挑戦を促進する |
大手人事調査の結果では、従業員エンゲージメントを高める最大要因は「仕事そのものへの情熱」であるとされています。これは情熱が単なる感情論ではなく、測定可能で再現可能な経営資源であることを示す重要なエビデンスです。情熱は、単に熱い思いを語るだけでなく、データや論理を組み合わせることで周囲の納得感を高め、組織全体を動かす力へと変わります。
情熱を支える自己認識と揺るぎない信念
周囲を巻き込む情熱は、外部から与えられるものではなく、推進者自身の内面から生まれます。その核心には深い自己認識と揺るぎない信念が存在します。京セラ創業者の稲盛和夫氏は「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」と説き、熱意が結果を大きく左右することを示しました。彼はどんな困難な状況でも「何としてもやり遂げる」という覚悟で自らを追い込み、不可能を可能にしてきました。
自己認識を深めるためには、次の要素が欠かせません。
- 自分はなぜこの事業をやるのかという動機の明確化
- 事業が社会に与える意義や価値の定義
- 自分が何を大切にするかという価値観の言語化
オーセンティック・リーダーシップの研究によれば、目的意識、明確な価値観、真摯な人間関係がそろうとリーダーは「本物の情熱」を示すことができ、フォロワーから信頼を獲得します。特に目的意識は行動の一貫性を生み、周囲に安心感と共感を与えます。
要素 | 具体的な内容 |
---|---|
目的意識 | 事業の存在理由を自分の言葉で語れる |
価値観 | どんな状況でもブレない判断基準を持つ |
人間関係 | メンバー一人ひとりに関心を持ち信頼を築く |
情熱は感情的な衝動ではなく、自己理解と信念に裏打ちされた「意志の力」です。この内的基盤が揺るがないからこそ、外部の反対や逆風にも屈せず周囲を巻き込み続けることができます。
周囲を巻き込む情熱の伝播メカニズム

情熱が単なる個人の感情に留まらず、周囲へ広がり組織全体を動かす力になる背景には、科学的な根拠があります。脳科学の研究では、他人の行動や感情を自動的に模倣する「ミラーニューロン」が情熱の伝播に関与していることが示されています。リーダーが情熱的な態度や行動を取ると、周囲の脳内で同様の活動が誘発され、自然と共感ややる気が生まれます。
また、信頼関係を築く際に分泌されるホルモン「オキシトシン」も重要です。リーダーが誠実な態度で接すると、フォロワーのオキシトシン分泌が促進され、心理的安全性が高まります。その結果、チーム全体の協力意欲や一体感が増し、困難な課題にも前向きに取り組める環境が形成されます。
伝播要因 | 効果 |
---|---|
ミラーニューロン | リーダーの情熱が行動模倣を通じて広がる |
オキシトシン | 信頼と安心感を高め、協力意欲を引き出す |
物理的距離 | 近いほど情熱が伝わりやすく、同調行動が増える |
さらに、物理的距離が情熱の伝わり方に影響することも知られています。ある研究では、2メートル以内の距離では伝播率が85%と高い一方、10メートル以上離れると8%未満に低下すると報告されています。新規事業推進者はこの特性を活かし、対面での対話や少人数ミーティングを意識的に増やすことで情熱の伝播効率を高めることができます。
重要なのは、情熱を「気合」や「根性」で押し付けるのではなく、科学的メカニズムを理解して環境をデザインすることです。オフィスのレイアウトを工夫して偶発的なコミュニケーションを増やす、定期的にビジョンを共有する場を作るといった取り組みが、組織全体のエネルギーを底上げします。
共感と論理のバランスで人を動かす方法
情熱を周囲に伝える際には、感情だけに頼るのではなく、共感と論理の両方をバランスよく組み合わせることが求められます。共感は相手の心を動かし、論理は頭を納得させます。この二つが揃うことで、人は初めて行動に移ることができます。
共感力を高めるためには、まず相手の話を最後まで聞き、価値観や感情を理解することが重要です。心理学研究では、深い傾聴が相手の安心感を高め、対話の質を向上させるとされています。また、自己開示も効果的です。自分の経験や想いを率直に語ることで、相手は共感しやすくなり、信頼関係が強化されます。
一方で、論理的な裏付けも欠かせません。市場規模、成長率、ユーザー調査などの客観的データを用いて、事業の実現可能性や成功の確率を示すことが必要です。これにより、情熱が単なる思いつきではなく、確かな根拠に基づいた挑戦であると周囲に伝わります。
- 共感を生む具体的アクション
・相手の話に耳を傾け、感情に寄り添う
・自分の想いや経験をオープンに共有する
・相手の立場に立った表現を心がける - 論理で納得させる具体的アクション
・データや事例を使って説得力を高める
・課題と解決策を明確に整理する
・成功までのロードマップを視覚化する
情熱は動機や価値を伝え、論理は実現可能性を保証します。この二つを合わせることで、周囲は心と頭の両面から納得し、「一緒にやろう」という行動意欲が高まります。新規事業推進者は、このバランスを意識的に設計することで、協力者の輪を広げることができます。
行動とストーリーテリングで情熱を形にする

情熱を周囲に伝える最も強力な方法の一つは、言葉ではなく行動で示すことです。新規事業推進者は、率先して動く姿勢を見せることでチームの信頼を獲得し、協力者を自然に巻き込みます。実際、行動心理学の研究でも「人は他者の行動を見て態度を変える」傾向があることが証明されており、リーダーの行動はチームの士気に直接影響します。
株式会社Team Energyの中村誠司氏は「できるかできないかではなく、やるかやらないかで考える」と語り、挑戦を続ける姿勢が周囲の行動意欲を高めると述べています。実行力は最大の説得力であり、挑戦する背中を見せることでメンバーは「自分もやろう」と動き出します。
さらに、ストーリーテリングは情熱を言語化して共有する有効な手段です。ソフトバンクの孫正義氏は、プレゼンで「スッキリ簡単に」「ストーリーに」「情熱的に」の3要素を大切にし、感情に訴えることで聴衆を巻き込みました。ストーリーは論理と感情をつなぐ橋渡しとなり、聞き手に事業の未来像を鮮明に想起させます。
行動要素 | 期待される効果 |
---|---|
率先垂範 | チームの信頼と尊敬を獲得 |
継続的な挑戦 | 協力者に勇気を与え、行動を促進 |
ストーリーテリング | 事業への共感と納得感を高める |
行動とストーリーを組み合わせることで、情熱は抽象的な概念から具体的なエネルギーへと変わります。推進者が自ら動き、未来を語ることで、組織全体が一体感を持って前進する力が生まれます。
成功事例に学ぶ情熱の活かし方:スープストックトーキョーとMonotaRO
情熱が新規事業の成功にどのように寄与するのかを理解するために、実際の事例を見てみましょう。株式会社スマイルズの遠山正道氏は、三菱商事勤務時代に「スープのある一日」という企画書を書き上げ、これがSoup Stock Tokyoの原点となりました。彼は「生活に身近な仕事をしたい」という個人的な想いを事業に昇華させ、従業員一人ひとりが主体的に動く文化を築きました。
一方、MonotaROを創業した瀬戸欣哉氏は、住友商事の社内ベンチャーとしてEコマース事業を立ち上げました。当初は地道なカタログデータ入力から始めるなど、地に足の着いた実行力で事業を拡大。後にLIXILグループの社長に就任し、巨大組織の変革をリードしました。これは情熱が単なるスタートアップの推進力にとどまらず、成熟企業の成長フェーズにも影響を及ぼすことを示しています。
事例 | 情熱の源泉 | 巻き込みの仕組み |
---|---|---|
Soup Stock Tokyo | 生活を豊かにする個人的な想い | 「自分ごと」の哲学、情熱に共鳴した人材の参画 |
MonotaRO | 商社ビジネスを変革する着想 | 地道な実行力、プロ経営者としてのリーダーシップ |
これらの事例から学べるのは、情熱が単なる感情ではなく、組織文化や戦略として形づくられ、周囲を動かす磁力となるということです。推進者が明確なビジョンと行動を示すことで、運命的な協力者が現れ、事業が加速します。情熱は組織の壁を越えて人材を惹きつけ、社会に新しい価値を生み出す原動力となります。
情熱の罠を避けるための客観性と撤退基準
情熱は新規事業を推進する強力なエネルギーですが、過剰になるとリスク要因にもなります。情熱にのめり込みすぎると、顧客ニーズや市場動向の変化に気づかず、撤退のタイミングを誤る危険があります。ファーストリテイリングが手掛けた生鮮野菜販売事業「SKIP」の失敗はその典型例で、企業側の理想を優先しすぎて顧客が求める利便性や品揃えに対応できず撤退に追い込まれました。
新規事業では、情熱と同時に客観的な指標を設定し、冷静に事業を評価することが欠かせません。
- KPIを定期的にモニタリングし、進捗を数値で確認する
- 顧客満足度やNPSスコアを継続的に収集する
- 市場データや競合動向を四半期ごとに更新する
評価項目 | 目的 | 指標例 |
---|---|---|
収益性 | 事業の採算性を把握 | 売上高、利益率 |
顧客価値 | 市場ニーズとの適合度を確認 | 顧客満足度、解約率 |
成長可能性 | 将来の伸びしろを評価 | 市場規模、成長率 |
また、撤退基準をあらかじめ設定しておくことも重要です。例えば「一定期間内に目標KPIの80%に達しなければ撤退を検討する」といったルールを事前に決めておくことで、感情的な判断を避けられます。冷静なデータ分析と情熱のバランスを保つことで、失敗リスクを最小化し、次の挑戦に資源を集中できます。
日本企業特有の組織文化と情熱の持続可能性
日本企業の新規事業では、既存事業部門との摩擦が大きな課題となります。多くの担当者が「既存部門から必要な協力を得られない」と感じていますが、研究によるとこの抵抗はむしろ新規事業への関心の表れであり、成果につながる可能性があるとされています。抵抗や干渉を敵視するのではなく、貴重なフィードバックとして活用する姿勢が求められます。
課題 | 活用方法 |
---|---|
リソース争い | 既存部門と情報共有し、双方のメリットを提示 |
意思決定の遅さ | 小規模実験で成果を示し、上層部の理解を得る |
現状維持バイアス | 社員を巻き込んで成功体験を共有し意識改革 |
また、日本企業は長期雇用を前提とした文化が強いため、挑戦よりも安定を重視する傾向があります。この環境で情熱を持続させるためには、組織全体で新規事業への挑戦を評価する制度が不可欠です。例えば、失敗してもキャリア上不利益を被らない仕組みや、挑戦を評価するインセンティブを設けると、社員は安心してリスクを取れるようになります。
さらに、社内でのビジョン共有も重要です。定期的に事業の進捗や成功体験を発信し、既存部門を含めた全社員に新規事業の意義を理解してもらうことで、情熱が孤立せず、組織全体の文化として根づきます。情熱が個人のものではなく、企業全体の成長エネルギーへと昇華されることで、持続可能な新規事業推進体制が実現します。
情熱を育む組織づくりと評価制度の再設計
情熱は個人の内面から湧き出るものですが、組織がそれを支える環境を整えることで、より持続的かつ大きなエネルギーへと成長します。多くの企業では、短期的な成果を重視した評価制度が新規事業の挑戦意欲を削いでしまうという課題があります。新規事業は不確実性が高く、成果が出るまでに時間がかかるため、挑戦そのものを評価する仕組みが不可欠です。
まず、評価制度の観点を見直す必要があります。従来の売上や利益といった定量指標だけでなく、次のような要素を評価に組み込むことで、社員は安心して挑戦できるようになります。
評価観点 | 内容 |
---|---|
学習と成長 | 仮説検証の回数、学んだ教訓の共有 |
チャレンジ度 | 難易度の高い課題への取り組み姿勢 |
協働と巻き込み | 部門横断の協力体制を作ったかどうか |
また、社内コミュニケーションを活性化し、成功や失敗の事例を共有する文化づくりも重要です。定期的に新規事業の進捗を全社へ発信するタウンホールミーティングや、挑戦した社員を称える表彰制度を導入すると、情熱が組織全体へ波及します。
さらに、心理的安全性を高める施策も欠かせません。失敗してもキャリア上の不利益を被らないことを明確に示し、挑戦を推奨するトップメッセージを発信することで、社員はより積極的にリスクを取れるようになります。実際、Googleの「プロジェクト・アリストテレス」では、チームの成功要因として心理的安全性が最も重要であると報告されています。
最後に、ビジョンと挑戦機会を組織全体で共有することが、情熱を文化として根付かせる鍵です。経営陣が自ら新規事業への思いを語り、社員が自分の役割を理解できる環境を作ることで、情熱は一過性のブームではなく、企業の成長エンジンとして機能します。