新規事業開発は企業にとって成長の原動力ですが、その成功確率は決して高くありません。市場の変化はかつてないスピードで進み、顧客ニーズは多様化し、不確実性は増す一方です。その中で「どの課題を解決すべきか」を見誤ると、莫大な投資や労力が無駄になってしまいます。従来の論理的思考や効率化重視の手法だけでは、この複雑な環境に対応することは困難になっています。
そこで注目されているのが「デザイン思考」です。デザイン思考は、ユーザーへの深い共感を起点とし、彼ら自身も気づいていない潜在的なニーズを発見して解決策を導くアプローチです。単なる発想法ではなく、組織全体の文化やマインドセットを変革し、持続的なイノベーションを生み出す力があります。
実際、日本国内外の多くの企業が導入し、売上成長や新市場創造につなげてきました。この記事では、デザイン思考の基本から日本企業の事例、実務に活かせる具体的なフレームワーク、そして他手法との戦略的統合までを詳しく解説します。
デザイン思考が注目される背景と新規事業開発の課題

新規事業開発は企業の成長を支える要ですが、その成功確率は決して高くありません。米国の調査では新規事業の約70〜90%が失敗するとされ、日本企業でも同様に高いリスクが存在します。その背景には、市場の不確実性や顧客ニーズの多様化、技術革新のスピードの加速といった要因があります。
特に日本市場は、人口減少や高齢化といった社会構造の変化が同時進行しており、既存のビジネスモデルでは対応しきれないケースが増えています。従来型の「効率化」や「前例踏襲」を重んじる発想では、競争力を維持することが難しくなっています。
新規事業担当者が直面する主な課題は次の通りです。
- 投資に見合う市場性があるかを早期に見極められない
- 部門横断での連携が難しく、組織の縦割り文化に阻まれる
- ユーザーの潜在的ニーズを把握できず、提供価値が不明確になる
こうした課題を克服するために求められるのが、ユーザー起点で課題を捉え、新しい価値を生み出すアプローチです。ここで「デザイン思考」が注目される理由があります。
デザイン思考は、人間中心の視点を基盤に「共感」「問題定義」「アイデア創出」「試作」「テスト」を繰り返す方法論であり、解くべき正しい問題を見つけることに重点を置く点が特徴です。従来のロジカルシンキングが既存の課題に対して合理的な解決策を導くのに対し、デザイン思考は未知の課題に向き合う力を提供します。
また、日本の調査によると「デザイン思考を認知している」人は92.2%と高い一方で、「実際に活用している」のは24.4%にとどまっています。これは、理解は進んでいるものの、実際の組織文化やマインドセットに根付いていないことを示しています。
つまり、新規事業開発の課題を突破するためには、デザイン思考を単なる流行語ではなく、組織変革を伴う実践スキルとして定着させる必要があるのです。
デザイン思考の基本概念とその強み
デザイン思考(Design Thinking)は、もともとデザイナーが創作活動で用いる思考プロセスをビジネスや社会課題解決に応用した人間中心のアプローチです。その目的は、単に新しいアイデアを生み出すのではなく、ユーザーが本当に求めている価値を見出し、それを実現する仕組みを創ることにあります。
デザイン思考の根幹を成すのは「Desirability(望ましさ)」「Feasibility(実現可能性)」「Viability(持続可能性)」の3要素です。
要素 | 内容 | 重要性 |
---|---|---|
Desirability(望ましさ) | ユーザーが本当に欲しいと思うか | 顧客満足やブランド愛着に直結 |
Feasibility(実現可能性) | 技術的に実現できるか | 開発リスクや導入コストに影響 |
Viability(持続可能性) | ビジネスとして成立するか | 収益性と継続性の確保に必須 |
この3つが重なる領域こそ、イノベーションが成立する理想のポイントといえます。
また、デザイン思考の特徴は「共感」に始まる点です。ユーザーの行動を観察し、インタビューを通じて潜在的な欲求や不満を掘り下げることで、本人すら気づいていない課題を明らかにします。IDEOやスタンフォード大学d.schoolでは「頭で考えるのではなく体感し、気づくこと」が重要だとされ、実際に現場に入り込んで五感で理解することが推奨されています。
このプロセスを経ることで、単なる改善策ではなく、生活や社会全体に影響を与える新しい価値創造が可能になるのです。
さらに、デザイン思考は一度きりの直線的な活動ではなく、試作と検証を繰り返す反復型のプロセスです。失敗を恐れずに小さく試す文化を育むことは、日本企業に不足しがちな心理的安全性を補い、組織に新しい風を吹き込みます。
近年では、デザイン思考はデジタルトランスフォーメーション(DX)や「デザイン経営」とも強く結びつき、単なる製品開発にとどまらず、企業戦略や経営文化を変革する鍵として位置づけられています。
日本企業における導入状況と課題

日本企業におけるデザイン思考の導入は、認知度と実践度の間に大きな乖離があるのが現状です。2023年の調査によると、イノベーション関連職種のビジネスパーソンの92.2%が「デザイン思考」という言葉を知っている一方で、実際に業務に取り入れている割合はわずか24.4%にとどまっています。この数値は、知識としては浸透しているものの、実務での活用が十分に進んでいないことを示しています。
また、2020年の調査では「デザイン思考を未導入」と回答した企業が78%、「試行的に導入している」が18.8%、「すでに定着している」が3.2%という結果でした。つまり、多くの企業はまだ初期段階にあり、本格的な実践には至っていないのです。
認知度と実践度の乖離が生じる理由
- 短期的なROIを重視する経営層から「コストがかかる活動」と見なされやすい
- 縦割り組織が部門横断的なコラボレーションを阻害する
- 失敗を避ける文化が根強く、実験的なプロトタイプ作成が進まない
- 会議での発言を控える傾向があり、多様なアイデアが出にくい
IDEO Tokyo元代表の野々村健一氏は「日本企業はやらない理由を考える人が多い」と指摘しており、この文化的背景がデザイン思考の定着を妨げているといわれます。
導入が進んだ企業の成果
一方で、デザイン思考を組織に深く根付かせた企業では明確な成果が見られています。調査では「浸透・定着」している企業グループは「未導入」のグループと比べ、売上増加率や新市場創造において有意な差を示しました。特に市場創造への効果が大きく、デザイン思考が単なる改善策ではなく、新たな市場を生み出す力を持つことが裏付けられています。
さらに経済産業省と特許庁が推進する「デザイン経営」や、DX(デジタルトランスフォーメーション)との関連性も強調されています。デザイン思考を導入した企業は、DXの成果を実感する割合が高く、特にデザイン思考を習得した人材を活用していると回答した割合は「成果を実感している」企業で44.5%に達しました。
つまり、日本企業にとってデザイン思考の導入はもはや選択肢ではなく、持続的成長と変革のための必須条件になりつつあるのです。
成功する企業の実践事例
データが示す可能性を実際の成果へとつなげてきた企業は、デザイン思考を単なる発想法ではなく「経営戦略」として活用している点に特徴があります。ここでは、日本を代表する企業の事例を紹介します。
日立製作所:冷蔵庫「野菜中心蔵」
日立は、主婦の冷蔵庫利用を徹底的に観察し、頻繁に開閉される野菜室を最下段から中央に配置するという革新を実現しました。その結果、使いやすさだけでなく「健康的なライフスタイルを促す」という新たな価値を提供し、大ヒット商品につながりました。これはユーザーの潜在的な不便さに共感したことで生活価値を創造した好例です。
富士通:DX推進の核としての活用
富士通は2016年からデザイン思考を全社的に導入し、全従業員にとって必須スキルと位置づけました。オンラインコミュニティの設立や独自教材の公開を通じて、デザイン思考を文化として根付かせ、DX人材育成に大きな効果を上げています。
トヨタ自動車:新しいクラウンの開発
トヨタは「次のクラウンは時代を象徴する存在でなければならない」というトップの強いビジョンを背景に、多様なライフスタイルに寄り添う新しいデザインを実現しました。これは顧客の多様性を尊重し、共感を起点に新たな価値を生み出した代表的な事例です。
パナソニック:顧客価値起点のデザイン変革
2017年から「デザイン変革」を推進し、技術起点から顧客価値起点へと事業構造を転換しました。キッチン空間事業部では、未来像を言語化して共通認識を育てることで、社員のモチベーションを高め、新しいものづくりを実現しています。
事例から得られる共通点
- トップの強力なコミットメント
- ユーザー観察に基づく深い共感
- 組織文化そのものを変える取り組み
これらの事例は、デザイン思考を単なるツールではなく、経営そのものに組み込むことで初めて大きな成果が得られることを示しています。
デザイン思考を実務に活かすフレームワークとツール

デザイン思考を新規事業開発の現場で実際に活用するためには、抽象的な概念を具体的な手法へと落とし込む必要があります。代表的なフレームワークやツールは、ユーザー理解の深化からビジネスモデル設計、そしてサービス実装まで幅広く応用可能です。
ユーザー理解を深めるツール
まず重要なのは、ユーザーを多面的に捉えることです。
- ペルソナ:典型的なユーザー像を具体的に描き出す。年齢・職業・価値観・生活習慣などを設定し、チーム全体で共有することで共感が生まれる。
- 共感マップ:ユーザーの「見ている」「聞いている」「考えている・感じている」「行動している」などを整理し、潜在的な感情や動機を可視化する。
- カスタマージャーニーマップ:ユーザーが認知から利用に至るまでの体験を時系列で描き、ペインポイントを特定する。
実際に日立アプライアンスは、設備店経営者をペルソナに設定し、現場の課題を把握することで業務用エアコン市場でシェア拡大に成功しています。
ビジネスモデルを構想するフレームワーク
新規事業では、アイデアを収益につなげる仕組みを設計することが不可欠です。
フレームワーク | 目的 | 活用例 |
---|---|---|
ビジネスモデルキャンバス | 顧客、価値提案、収益源など9要素を整理 | ネスプレッソのD2C転換 |
SWOT分析 | 内外環境の強み・弱み・機会・脅威を分析 | 新規市場参入戦略の立案 |
サービスブループリント | 顧客行動に加え、裏側の業務やシステムまで可視化 | 接客業務の効率化、UX向上 |
これらを組み合わせることで、単なる発想にとどまらず、実行可能性の高い事業設計が可能となります。
実務適用のポイント
- 1つのツールに依存せず、組み合わせて使う
- 現場の声を取り入れ、机上の空論にしない
- プロトタイプとテストを短いサイクルで回し、仮説検証を繰り返す
フレームワークはあくまで手段であり、目的はユーザー価値の最大化にあります。ツールを活用しながら、現場と顧客に根ざした実践を積み重ねることが成功の鍵です。
グローバル事例に学ぶイノベーションの本質
日本企業がデザイン思考を効果的に活用するためには、世界的な成功事例から学ぶことも重要です。海外の事例は業界を超えて応用可能な洞察を与えてくれます。
Apple:体験全体をデザインする
AppleのiPodとiTunesの統合は、デザイン思考の代表的成功例です。単なる音楽プレイヤーではなく、「音楽を探す・購入する・管理する・聴く」という一連の体験を再設計しました。その結果、ユーザー体験を飛躍的に改善し、音楽業界全体を変革しました。製品単体ではなく体験全体をデザインする視点が重要であることを示した事例です。
Airbnb:共感が成長を加速
創業初期に成長が停滞したAirbnbは、物件写真の質が低いことが予約率の低下につながっていると気づきました。創業者自らがホストを訪問し、プロ並みの写真を撮影した結果、予約率が2倍以上に向上。ユーザーやホストの立場に立って課題を解決する姿勢が事業の転換点となったのです。
GEヘルスケア:体験の意味を再定義
小児患者がMRI検査を恐れる問題に対し、GEヘルスケアは装置を「冒険体験」に変えるアプローチを取りました。検査室を宇宙船や海賊船に見立てた「アドベンチャー・シリーズ」によって、鎮静剤使用率が大幅に低下し、患者満足度も収益性も改善しました。課題のフレーミングを変えることで、新たな価値を創出できることを示す事例です。
日本企業への示唆
- 製品やサービスだけでなく、顧客体験全体を設計する
- データ分析に加え、現場に入り込み共感を実践する
- 問題を新しい枠組みで捉え直す(リフレーミング)
これらの事例は、イノベーションの源泉が人間への深い洞察にあることを改めて教えてくれます。日本企業も単なる模倣ではなく、自社の顧客や社会への共感を基盤に価値創造を追求する姿勢が不可欠です。
デザイン思考と他手法の統合による戦略的活用
デザイン思考は単独でも強力なアプローチですが、その真価は他の手法と組み合わせることでさらに高まります。特にリーンスタートアップやジョブ理論(Jobs-to-be-Done、JTBD)との統合は、新規事業開発において実践的かつ戦略的な成果を生み出します。
デザイン思考とリーンスタートアップの補完関係
両者はしばしば混同されますが、本来の役割は異なります。
手法 | 主な目的 | 特徴 | 適用フェーズ |
---|---|---|---|
デザイン思考 | 解くべき正しい問題を見つける | ユーザー共感、非線形プロセス、潜在ニーズの発見 | 初期段階(課題探索・アイデア創出) |
リーンスタートアップ | 事業として成立するか検証する | MVPによる仮説検証、Build-Measure-Learnサイクル | 中期段階(事業モデル検証・市場適合性確認) |
デザイン思考は「何を作るべきか」を探り、リーンスタートアップは「それをどう事業として成立させるか」を検証するという関係にあります。
この流れを実践すれば、ユーザーに支持される可能性の高いコンセプトを起点に、効率的に事業化を進められるため、失敗のリスクを最小化しながら成長の確度を高めることができます。
ジョブ理論(JTBD)との統合で課題定義を深化
ジョブ理論は「顧客は製品を買うのではなく、自分の課題を解決するためにそれを雇用している」という視点を提供します。例えば、朝の通勤時にミルクシェイクを買う人は、単に空腹を満たすだけでなく「退屈な運転を和らげたい」「片手で扱いやすい飲食物が欲しい」という複数のジョブを解決している可能性があります。
デザイン思考にジョブ理論を組み込むことで、以下の効果が得られます。
- 表面的なニーズを超えた根源的な動機の特定
- 競合の再定義(同じジョブを解決する他分野の製品まで視野に入れる)
- イノベーションの方向性を明確にする
つまり、ジョブ理論は「問題定義の精度を高めるレンズ」として機能し、デザイン思考の共感プロセスをさらに深める役割を果たします。
統合的な実践の意義
実際の新規事業開発では、以下のような流れが理想的です。
- ジョブ理論で顧客の本質的な課題を定義する
- デザイン思考で解決策を創出し、プロトタイプとテストで磨き上げる
- リーンスタートアップで市場に投入し、ビジネスモデルを検証する
この統合的アプローチは、アイデア発見から事業成立までを一気通貫で支えるため、成功確率を高める強力な戦略となります。