日本企業が新規事業開発に挑む際、最大の課題となるのが「ガバナンスと挑戦の両立」です。近年、内部統制の強化やコンプライアンス遵守が強く求められる一方で、急速に変化する市場ではリスクを取った大胆な挑戦が欠かせません。統制を強めれば挑戦が萎縮し、挑戦を奨励すれば統制が緩む――このジレンマは「ガバナンス・パラドックス」と呼ばれ、日本企業の持続的成長を阻む要因になっています。

しかし、最新の研究や実践事例から見えてくるのは、ガバナンスが挑戦の「足枷」ではなく「プラットフォーム」として機能する可能性です。堅牢な守りの基盤があるからこそ、経営者は安心してリスクテイクでき、イノベーションを推進できます。ソニーや積水化学の事例が示すように、ガバナンスは単なる監視装置ではなく、新規事業を支える戦略的エンジンとなり得るのです。

本記事では、日本のガバナンス構造の特徴、ガバナンス不全や過剰コンプライアンスの落とし穴、そして「攻めのガバナンス」や「両利きの経営」といった理論的枠組みを解説します。さらに先進企業の事例や最新のアジャイル・ガバナンスの潮流を紹介し、新規事業開発を成功に導くための実践的示唆を提示します。

序章:ガバナンスと挑戦のパラドックスが新規事業開発に与える影響

新規事業開発を担う企業にとって、最大の経営課題の一つが「ガバナンスと挑戦の両立」です。日本企業は長年、内部統制やコンプライアンス遵守を重視してきましたが、その一方で世界市場ではリスクを伴う革新が求められています。統制を強めれば挑戦が萎縮し、挑戦を重視すれば統制が緩むという矛盾は「ガバナンス・パラドックス」と呼ばれ、企業経営に深刻な影響を与えています。

この課題は、近年の企業不祥事や過剰なリスク回避の風潮を通じて一層注目されています。たとえば2024年の大手中古車販売会社の不祥事では、統制環境が崩壊した結果、組織全体で不正が常態化しました。一方で、多くの大企業では過剰コンプライアンスによって意思決定が著しく遅延し、スタートアップが数週間で行う判断に数ヶ月を要するケースも報告されています。

このような状況は、新規事業開発におけるスピードや柔軟性を大きく損ないます。経営学者の入山章栄氏は、イノベーションは「知の深化」と「知の探索」の両立によって生まれると指摘していますが、日本企業は往々にして「深化」ばかりに偏り、挑戦的な探索が不足する傾向にあります。これはガバナンスが不正防止という守りの枠組みにとどまり、挑戦を促す仕組みとして機能していないことを示しています。

新規事業の現場では、リスクをゼロにする統制ではなく、失敗を前提に学習する仕組みが不可欠です。統制と挑戦の両立は矛盾ではなく、むしろ補完関係にあります。守りのガバナンスが強固であるからこそ、経営者や現場は安心してリスクテイクに踏み出すことができるのです。今後の新規事業開発では、この視点の転換が成功の鍵となります。

日本のガバナンス構造の基盤と新規事業への示唆

日本企業におけるガバナンスの基盤は「会社法」「金融商品取引法(J-SOX)」「コーポレートガバナンス・コード」という三つの柱に支えられています。これらはそれぞれ異なる目的を持ちつつ、企業の透明性や健全性を担保するために機能しています。

まず、会社法は大会社に内部統制システムの構築を義務付けており、取締役会の監督責任を通じて経営全体の適正を確保する仕組みです。一方、J-SOXは財務報告の信頼性確保を目的にすべての上場企業に適用され、経営者による内部統制の有効性評価と監査法人の保証を義務付けています。さらに、コーポレートガバナンス・コードは「遵守か説明か」という原則に基づき、企業が株主やステークホルダーに対して透明性の高い経営を行うことを促しています。

制度根拠法主目的対象企業特徴
会社法会社法経営の適正確保大会社内部統制の構築を義務化、罰則なし
J-SOX金融商品取引法財務報告の信頼性確保上場企業経営者評価と監査法人監査を必須、罰則あり
コーポレートガバナンス・コード金融庁・東証企業価値向上とリスクテイク支援上場企業法的拘束力なし、説明責任を重視

この三層構造は、法的な統制から企業文化の醸成までをカバーしており、健全な企業経営の最低基盤を形成しています。

新規事業開発において注目すべきは、コーポレートガバナンス・コードが取締役会の責務として「経営幹部による適切なリスクテイクを支える環境整備」を明記している点です。これはガバナンスが単なる守りではなく、挑戦を後押しする役割を担うべきことを示しています。

法的統制が「床」を規定する一方、ガバナンス・コードは企業価値向上のために「天井」を高くする仕組みです。この両者を適切に使い分けることで、企業は守りと挑戦をバランス良く両立できるのです。新規事業担当者にとって、この構造理解は単なる制度遵守を超え、挑戦を可能にするガバナンス設計へとつながります。

ガバナンス不全と過剰コンプライアンスが生む二つの危機

ガバナンスは企業経営に不可欠な基盤ですが、そのバランスを欠くと二つの深刻な危機を招きます。一つは統制が弱くなり不正が蔓延する「ガバナンス不全」、もう一つは過剰な規制や管理によって組織が硬直化する「過剰コンプライアンス」です。新規事業開発においては特に後者の影響が大きく、挑戦が萎縮し、機会を逃す原因となります。

近年の企業不祥事から学ぶ教訓

2024年に社会を揺るがした大手中古車販売会社の不祥事は、ガバナンス不全の典型例です。経営陣が現場に過度な営業ノルマを課した結果、従業員は不正請求や車両損壊といった違法行為に追い込まれました。ここで崩壊していたのは、内部統制の根幹である「統制環境」であり、組織全体の倫理観や健全性が失われていたのです。

同様に過去には、大和銀行事件のように、牽制機能の欠如と隠蔽体質によって巨額の損失を生み、国際的信用を失った事例もありました。これらの事例は、内部統制の仕組みが形式的に存在していても、それを運用する人間の意識が伴わなければ全く機能しないことを示しています。

オーバーコンプライアンスがイノベーションを阻む理由

一方で、不祥事を恐れるあまり多くの企業が陥るのが「過剰コンプライアンス」です。過剰な承認プロセス、膨大な書類作業、ルール遵守に偏った文化は、従業員の創造性を抑え込みます。特に稟議制度が強い日本企業では、意思決定が著しく遅延し、成長機会を逃すリスクが高まります。

例えば、スタートアップが1週間で新規サービスを立ち上げる一方、大企業では3ヶ月以上かかるケースが少なくありません。この遅延は市場環境の変化に追随できない要因となり、競争力を低下させます。

さらに、ルールを守ること自体が目的化すると、従業員は挑戦や改善を試みなくなり「指示待ち文化」が根付きます。これはボトムアップ型のイノベーションを阻害し、長期的な企業成長を鈍化させる大きな要因となります。

ガバナンスの欠如と過剰コンプライアンスは正反対に見えて、どちらも企業価値を失わせる点で共通しています。問題の本質は構造ではなく文化にあり、恐怖に基づく環境では挑戦も健全な統制も成立しません。

「攻めのガバナンス」と両利きの経営:新規事業を支える理論的基盤

新規事業開発を推進するためには、従来の「守り中心」のガバナンスを「攻めのガバナンス」へと進化させる必要があります。これは単に統制を弱めるのではなく、強固な基盤の上に挑戦を後押しする仕組みを構築することを意味します。

攻めのガバナンスの定義と目的

経済産業省が策定した「コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針」では、攻めのガバナンスを「健全なリスクテイクを支える環境整備」と定義しています。つまり、不正防止やリスク回避といった守りを前提に、経営陣が大胆な意思決定を行える環境を整えるものです。

この枠組みでは、取締役会は単なる監督機関ではなく「戦略的パートナー」としての役割を担います。経営計画を形式的に承認するのではなく、仮説を問い、建設的な議論を通じて戦略を磨き上げることが求められます。

両利きの経営との関係

攻めのガバナンスを支える理論として注目されるのが「両利きの経営」です。これは既存事業の効率化を図る「知の深化」と、新しい知識や市場を探索する「知の探索」を同時に追求するアプローチです。

  • 知の深化を支えるのは守りのガバナンス。内部統制や品質管理を通じて効率性を最大化します。
  • 知の探索を可能にするのが攻めのガバナンス。リスクを許容し、失敗から学ぶ環境を整備します。

この二つをバランスよく組み合わせることで、企業は安定性と挑戦性を両立させることができます。

実践に向けた示唆

攻めと守りの役割を明確に切り分けたガバナンスは、単なるルールセットではなく「事業特性に応じたオペレーティングシステム」として設計されるべきです。成熟事業には守りを重視した体制、新規事業にはスピードと柔軟性を重視した体制を適用することで、両利きの経営を実現できます。

新規事業開発における成功は、守りと攻めの両立を通じてのみ達成されます。ガバナンスは制約ではなく、挑戦を後押しする戦略的エンジンとなり得るのです。

取締役会の進化と挑戦を後押しするガバナンスデザイン

新規事業開発におけるガバナンスの要は取締役会にあります。従来の日本企業における取締役会は、経営陣の意思決定を追認する形式的な場にとどまるケースが多く、戦略的議論や挑戦の後押しという役割は十分に果たしていませんでした。しかし、近年のコーポレートガバナンス改革により、取締役会は監督機関から「価値創造の議論の場」へと進化を遂げつつあります。

社外取締役の役割強化

東京証券取引所はプライム市場上場企業に対し、取締役会の3分の1以上を独立社外取締役とすることを求めています。社外取締役は経営に多様な視点を持ち込み、リスクを冷静に評価しつつ挑戦を促す存在です。実際、社外取締役が活発に意見を述べる企業では、事業ポートフォリオの転換やM&Aといった戦略的意思決定が加速しているとの調査結果もあります。

取締役会での戦略的議論

取締役会を新規事業推進の場とするためには、財務報告の承認や形式的な説明に終始せず、経営陣と社外取締役が戦略的な仮説を検討することが不可欠です。経営学者マイケル・ポーターは「競争戦略は選択の連続である」と述べていますが、取締役会はその選択を問い直す最適な場となり得ます。

成果を高めるためのガバナンスデザイン

効果的な取締役会の設計には以下の要素が求められます。

  • 社外取締役に新規事業やDX経験を持つ人材を登用する
  • 社内外の知識を活用した仮説検証型の議論を行う
  • 定例会議に加え、戦略テーマに特化した臨時セッションを設ける

形式的な監督機関から、挑戦を後押しする戦略的パートナーへと進化する取締役会こそが、次世代のガバナンスの中核となります。

ソニー・積水化学に学ぶ先進企業の実践事例

理論だけでなく、実際に「攻めのガバナンス」を取り入れ、新規事業を成功させている企業の事例は新規事業担当者にとって大きな示唆を与えます。その代表例がソニーと積水化学です。

ソニーの事例:CVCと分社経営

ソニーはかつて「守り」に偏ったガバナンスにより硬直化していましたが、2010年代以降、企業内ベンチャーやCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)を積極的に展開しました。取締役会も、既存事業の効率化だけでなく、新規事業投資のリスクを正当に評価し、将来性に基づいた判断を行うように進化しています。その結果、ゲーム、音楽、映画といった成長分野を軸に復活を遂げました。

積水化学の事例:社会課題解決型の新規事業

積水化学はSDGsやカーボンニュートラルを軸にした新規事業開発を推進しています。社外取締役を交えた取締役会は、短期的な収益性だけでなく、社会課題解決のインパクトを評価基準に組み込みました。これにより、住宅や医療、環境分野での新規事業が進展し、企業の持続的な競争優位を確立しています。

共通点と示唆

両社の事例に共通するのは、取締役会が「事後承認の場」から「挑戦を設計する場」へと変革している点です。

企業名取組みの特徴新規事業への効果
ソニーCVCや分社経営による挑戦の加速成長分野での収益基盤再構築
積水化学社会課題解決を基盤とした新規事業評価SDGsと連動した持続的競争力

先進企業の実践は、ガバナンスが挑戦を抑制するのではなく、挑戦を制度的に後押しできることを示しています。新規事業担当者にとって、この視点は今後のガバナンス設計に欠かせないものとなります。

アジャイル・ガバナンスとRegTechが描く未来の新規事業環境

新規事業開発におけるガバナンスは、従来の固定的なルールと監視中心の仕組みから、柔軟性と適応力を備えた「アジャイル・ガバナンス」へと進化しています。これは、不確実性が高く変化の速い市場に対応するために、統制を動的に設計し直す考え方です。特にデジタル技術の進展は、このガバナンス変革を大きく後押ししています。

アジャイル・ガバナンスの特徴

従来型ガバナンスとアジャイル・ガバナンスの違いを整理すると、以下のようになります。

観点従来型ガバナンスアジャイル・ガバナンス
目的不正防止と法令遵守挑戦支援とリスク最適化
プロセス年次計画や定型監査が中心継続的改善とリアルタイム監視
意思決定階層的・稟議型分散型・迅速な合意形成
文化恐怖による統制学習と挑戦を促す統制

アジャイル・ガバナンスは守りと攻めを同時に成立させる仕組みであり、挑戦を可能にする「動的な安全網」として機能します。

RegTechによる効率化と挑戦の加速

新たな潮流として注目されるのがRegTech(Regulatory Technology)です。AIやブロックチェーン、クラウド技術を活用して法令遵守やリスク管理を効率化するもので、欧米を中心に急速に普及しています。2023年の世界のRegTech市場は約120億ドル規模とされ、2028年には倍以上に成長すると予測されています。

日本でも金融庁や日銀がRegTech活用を推奨しており、取引データのリアルタイム監視やマネーロンダリング対策への導入が進んでいます。この動きは新規事業にとっても大きな追い風です。従来数週間かかっていたリスクチェックが自動化されれば、意思決定のスピードが格段に高まり、実証実験や新規プロジェクトの立ち上げが迅速化します。

新規事業環境へのインパクト

アジャイル・ガバナンスとRegTechの融合は、新規事業環境に次のような変化をもたらします。

  • リスク管理コストの削減により、少額投資での実証実験が容易になる
  • 失敗から迅速に学ぶサイクルが可能になり、挑戦の数が増える
  • データ駆動型の統制により、感覚ではなく客観的根拠に基づく意思決定が実現する

経営学者エイミー・エドモンドソンが提唱する「心理的安全性」はイノベーションの前提条件とされていますが、アジャイル・ガバナンスとRegTechはその制度的基盤を提供します。

これからの新規事業開発では、ガバナンスは制約ではなく挑戦を可能にする推進力となります。テクノロジーと制度設計の進化を組み合わせることで、日本企業は不確実性の時代を乗り越え、世界市場での競争力を高めることができるのです。