新規事業開発の現場では、環境変化のスピードが加速し、成功確率が極めて低いという現実が立ちはだかっています。中小企業白書によれば、日本の企業は創業から10年後には約7割が市場から退出しており、この数字は事業開発の厳しさを如実に示しています。その一方で、こうした不確実な状況を乗り越えて成長する企業も存在します。その違いを生み出す根本的な要因の一つが「自分を信じる力」です。
この「自分を信じる力」は単なる精神論ではなく、心理学の研究に裏付けられた「心理資本」として体系化されています。自己効力感、グリット、レジリエンス、グロースマインドセットという4つの柱は、測定可能かつ育成可能な資質であり、事業開発を加速させる重要な要素です。
さらに、稲盛和夫氏や柳井正氏といった偉大な経営者の哲学、GEM(グローバル・アントレプレナーシップ・モニター)調査による日本の起業環境データ、そして心理学的エビデンスは、この力の実効性を裏付けています。
本記事では、心理資本の具体的な内容と日本特有の文化的背景、自信と過信の違い、そして実践的な鍛え方までを解説し、新規事業開発担当者やこれから挑戦を志す人にとって、成功へと導く羅針盤となる知見をお届けします。
序章:不確実性の時代に問われる「自分を信じる力」

新規事業開発の世界は、失敗が前提とも言える厳しい環境にあります。中小企業白書によれば、日本における企業の10年後の生存率はおよそ3割にとどまり、7割が市場から退出しています。こうした状況は、資金調達や市場分析といった外部要因の難しさだけでなく、創業者自身の心理的な強さが成功を左右する大きな要因であることを示しています。
特に注目すべきは「自分を信じる力」です。これは単なる根性論ではなく、心理学的に体系化された「心理資本」という概念に基づいています。心理資本は、自己効力感、グリット、レジリエンス、グロースマインドセットという4つの要素から成り立ち、これらは測定可能かつ育成可能な経営資源とされています。慶應義塾大学の研究でも、自己効力感が高い人ほどパフォーマンスや挑戦意欲が向上することが示されており、事業開発において強力な推進力となることが明らかになっています。
さらに、国際的なデータからも日本の特殊性が浮き彫りになります。グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)の調査では、日本の総合起業活動指数(TEA)は6.1%と、G7諸国の中で最低水準にあります。その一方で、一度起業した企業の5年後の生存率は約8割と比較的高いのです。この矛盾は、起業を選ぶ人が少ない分、挑戦する人は入念な準備と強固な自己信念を持っていることを意味します。
つまり、新規事業の成功を左右する鍵は、外部環境だけでなく、起業家自身が持つ心理的な資本にあります。本記事では、この心理資本を構成する要素とその実践的な鍛え方を解説し、不確実性の時代を生き抜くための「自分を信じる力」の真価を探っていきます。
起業家を支える4つの心理資本とは
心理資本は、起業家が困難を乗り越えるための内的エンジンとして機能します。以下の4つの柱が、その中心的な役割を果たしています。
- 自己効力感(Self-Efficacy):課題を達成できるという確信
- グリット(Grit):長期的な目標に向けた情熱と粘り強さ
- レジリエンス(Resilience):逆境から立ち直る回復力
- グロースマインドセット(Growth Mindset):能力は努力で伸ばせるという信念
心理資本の要素 | 内容 | 事業開発への影響 |
---|---|---|
自己効力感 | 自分にはできるという確信 | 高い挑戦意欲、持続的な行動 |
グリット | 長期目標への情熱と粘り強さ | 成功までの努力を支える |
レジリエンス | 失敗や逆境からの回復力 | 継続的な挑戦を可能にする |
グロースマインドセット | 能力は伸ばせるという信念 | 学びを重視し、改善を続ける |
心理学者バンデューラの研究では、自己効力感が高い人ほど失敗を脅威ではなく挑戦と捉え、行動に移す傾向が強いとされています。また、ペンシルベニア大学のダックワース教授が提唱したグリットは、才能やIQよりも成功を左右する重要な要因とされています。
実際、柳井正氏の「一勝九敗」という哲学や、イチロー選手の継続的な努力は、グリットとレジリエンスの象徴といえる事例です。さらに、マイクロソフトがグロースマインドセットを全社的に導入した結果、イノベーション提案数が大幅に増加したという報告もあります。
これら4つの要素は相互に作用し合い、挑戦と学習のサイクルを加速させます。グロースマインドセットが土台となり、小さな成功体験を積むことで自己効力感が育まれます。その自信が粘り強さを強化し、失敗した際にはレジリエンスが回復を促し、再び挑戦へとつなげるのです。
この心理資本こそが、財務資本では測れない新規事業成功の先行指標となり、起業家の持続的な成長を支える不可欠な資産となります。
日本の起業環境と自己信念の文化的背景

日本における起業活動は、他国と比べて著しく低い水準にあります。グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)の2023年調査では、日本の総合起業活動指数(TEA)は6.1%にとどまり、世界平均14.1%や米国17.5%を大きく下回りました。これはG7諸国の中で最低水準であり、日本の起業家精神が国際的に見ても弱いことを示しています。
一方で、起業後5年の生存率は約8割と高く、これは欧米諸国よりも高い水準です。この矛盾は、日本の起業家が慎重かつ周到に準備を進める傾向が強いことを物語っています。つまり、起業に挑む人の数は少ないものの、一度始めれば比較的継続しやすい環境にあるのです。
文化的な背景として、日本では「失敗への恐れ」が依然として強く根付いています。調査では、日本人の42.1%が「失敗への恐れ」を起業の障害と回答しており、社会全体で失敗に寛容ではないことが分かります。さらに「起業に必要な知識やスキルを持っている」と答えた人はわずか12.5%にとどまり、米国やカナダの50%超と比較すると大きな差があります。
また、自己肯定感の低さも大きな課題です。内閣府の調査によると、「自分に満足している」と答えた日本の若者は4割程度で、欧米諸国の8割以上と比べて顕著に低い数値です。この傾向は起業家にも影響を及ぼし、自信を持って挑戦する文化の醸成を難しくしています。
- 日本の起業活動の特徴
・起業率は低いが生存率は高い
・失敗への恐れが大きい
・自己肯定感や能力に対する自信が低い
このような背景の中で成功するためには、外部環境を変えるだけでは不十分です。むしろ、自分を信じる心理資本を強化することで、文化的に根付いた制約を乗り越え、挑戦への第一歩を踏み出すことが求められます。
自信と過信の境界線:認知バイアスが招く落とし穴
「自分を信じる力」は新規事業開発を推進する強力なエンジンですが、その力が制御を失うと「過信」となり、事業の失敗を招きます。ここで重要なのが、心理学で明らかにされている認知バイアスです。
代表的なものが「ダニング=クルーガー効果」です。これは、知識や経験の浅い人ほど自分の能力を過大評価してしまう現象です。新任の起業家や経営者が初期の成功に酔いしれ、必要な学びを怠ると、大きなリスクを見逃す危険性があります。
もう一つは「確証バイアス」です。人は自分の信じたい情報ばかりを集め、反証となるデータを軽視する傾向があります。例えば新規事業において、肯定的な顧客の声や市場データだけに注目し、否定的な指標を無視すると、事業撤退のタイミングを誤り、損失を拡大させる恐れがあります。
実際に、セブン&アイ・ホールディングスの「7pay」は、セキュリティ体制の不備を軽視した過信により、サービス開始からわずか3カ月で終了に追い込まれました。また、ファーストリテイリングが手掛けた野菜販売事業も、自社の成功モデルを過信した結果、1年半で撤退に至りました。これらの事例は、強すぎる自信が市場の現実を見誤らせる典型例です。
表:自信と過信の違い
健全な自信 | 危険な過信 |
---|---|
批判を受け入れる | 反証を拒絶する |
学び続ける姿勢 | 成功体験に固執する |
長期的な挑戦意欲 | 短期的な成功に酔う |
現実的な自己評価 | 自己を過大評価 |
成功する起業家は、この境界線を理解し、自信と謙虚さを両立させています。柳井正氏の「一勝九敗」という言葉は、まさに自信と失敗の両方を受け入れるバランスを示しています。起業家が持つべき「信じる力」とは、盲目的な楽観ではなく、学び続ける姿勢に裏打ちされた現実的な自信なのです。
偉大な経営者に学ぶ「信じる力」の哲学

日本のビジネス史を築いてきた経営者たちは、困難な状況に直面しても揺るぎない信念を持ち続け、事業を成功に導いてきました。その背景には、心理資本の4つの柱である自己効力感、グリット、レジリエンス、グロースマインドセットが見事に体現されています。
稲盛和夫氏(京セラ・KDDI創業者)は「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉を残しています。これは、事業の目的が社会にとって善であるかを自問する姿勢であり、利他的な動機が揺るぎない信念を支える原動力になることを示しています。彼の「思考は必ず現実になる」という哲学も、強い願望と利他の心が困難を突破する力を生むことを教えてくれます。
柳井正氏(ファーストリテイリング創業者)の「一勝九敗」という哲学は、失敗を恐れず学び続ける姿勢を象徴しています。9回の失敗から1回の成功を導くという考え方は、挑戦と学びを繰り返すグロースマインドセットと、逆境を力に変えるレジリエンスの実践そのものです。
さらに、孫正義氏(ソフトバンク)や三木谷浩史氏(楽天)は、時に無謀と見られるほどの大胆なビジョンを掲げ、それを実現してきました。孫氏が巨額の赤字を出してもなお投資を続けた姿勢や、三木谷氏が既成概念に挑戦し続ける姿は、極めて高い自己効力感とグリットの表れです。
藤田晋氏(サイバーエージェント)は、株価暴落という逆境の中で「21世紀を代表する会社を創る」という宣言を拠り所にしました。この明確なビジョンが、彼を支え続ける心理的エネルギー源となり、事業拡大を実現しました。
- 偉大な経営者に共通する特徴
・自己利益ではなく社会的意義に基づく動機
・失敗を学びと捉える姿勢
・未来を信じ抜く力強いビジョン
・信念を組織全体に浸透させるリーダーシップ
彼らの哲学は、自分を信じる力が単なる楽観ではなく、利他性と学習意欲に裏打ちされた持続的なエネルギーであることを証明しています。
起業家を追い詰める心理的コストとその克服法
華やかに見える起業の裏側では、多くの経営者が大きな心理的負担を背負っています。調査によれば、経営者の約半数が「心の不調」を経験しており、スタートアップ創業者に限定するとその割合は67.9%に達します。特に女性創業者では8割以上がメンタルヘルスの課題を抱えていると報告されています。
主な要因としては、「資金繰りへの不安」(45.1%)、「将来の見通し」(44.4%)、「業績不振」(31.7%)が挙げられます。さらに、経営者の44.3%が「孤独を感じる」と答えており、これは「起業家の孤独のパラドックス」と呼ばれる現象です。多くの人に囲まれながらも、最終的な決断と責任を一人で背負うことが、強い心理的ストレスとなっているのです。
また、一度の失敗が再挑戦の大きな心理的ハードルとなることも明らかになっています。近畿経済産業局の調査では、再挑戦における課題として「心理的なハードルが高い」と回答した起業家が21.6%に上りました。過去の失敗がトラウマとなり、「自分にはできないのでは」という疑念を払拭することが難しくなるのです。
しかし、克服の道も存在します。成功した再挑戦者に共通する要因として、「一貫した信念を持つ取り組み」が最も多く挙げられました。失敗を学びに変え、再び挑戦する強固なレジリエンスが、結果的に事業成功へとつながっています。
- 心理的コストの主な要因
・資金繰りや業績への不安
・意思決定の孤独
・失敗体験によるトラウマ - 克服の鍵
・強固な目的意識を持つ
・支援的なネットワークを構築する
・失敗を成長の材料と捉える
起業家が心理的コストと向き合い続けるためには、自分を信じる力を意識的に鍛えることが不可欠です。さらに、メンターや仲間とのネットワークを活用し、孤独を和らげる仕組みを整えることも重要です。心理資本を強化することが、長期的な挑戦を持続させる最大の支えとなります。
心理資本を鍛える実践的アプローチ
心理資本は生まれ持った性質ではなく、日々の取り組みや環境づくりによって鍛えることができます。経営者や起業家が意識的に取り入れることで、不確実性の高い事業環境においても持続的に挑戦し続ける力を身につけられます。
まず重要なのは「小さな成功体験を積むこと」です。自己効力感は成功体験によって強化されるため、大きな目標を細分化し、一つずつ達成することが有効です。心理学者バンデューラの研究でも、挑戦課題の達成が自信を高め、次の行動を促進することが確認されています。
また、グリットを高めるためには「長期的な目的意識」を明確にすることが必要です。ハーバード・ビジネス・レビューでは、起業家が持続的に成果を出すためには、短期の利益ではなく大きなビジョンに基づいた活動が不可欠であると指摘されています。目的を共有する仲間やメンターの存在も、粘り強さを支える要因となります。
レジリエンスを鍛える方法としては「リフレーミング(見方の転換)」が挙げられます。困難を単なる失敗ではなく学びの機会として捉える習慣は、再挑戦を後押しします。実際、スタンフォード大学の研究では、ポジティブ心理学的な介入を受けた学生は、挫折後の回復力が向上することが示されています。
さらに、グロースマインドセットは「学習する文化」を組織に根付かせることで強化されます。マイクロソフトがサティア・ナデラCEOの下で導入した「Learn-it-all(何でも学ぶ)」の文化は、社員の挑戦意欲を高め、イノベーション数を大幅に増加させました。
- 心理資本を高める具体的手法
・小さな成功を積み重ねる
・長期的なビジョンを明確にする
・失敗を学びに変えるリフレーミング
・学び続ける文化を醸成する
これらの取り組みは、個人の成長だけでなく、組織全体の持続的な競争力強化につながります。心理資本を戦略的に鍛えることが、新規事業開発を成功へと導く実践的なアプローチなのです。
エコシステムが起業家の信念を支える役割
起業家が自分を信じ続けるためには、個人の努力だけでなく、社会や組織が提供する支援の仕組みも大きな影響を与えます。近年注目されているのが「スタートアップ・エコシステム」の役割です。
エコシステムとは、大学、投資家、行政、企業、起業家コミュニティなどが連携し、挑戦を支える環境をつくる仕組みを指します。経済産業省の「J-Startupプログラム」はその代表例で、選定企業に対して資金支援、メンタリング、海外展開サポートを提供しています。これにより、単独では不安定な起業活動も、社会的な支えの中で持続性を高められるのです。
また、地域レベルでの支援も広がっています。たとえば神戸市や福岡市では、スタートアップ拠点を整備し、起業家同士のネットワーク形成を促しています。こうしたコミュニティは、起業家が抱える「孤独のパラドックス」を和らげ、仲間との相互支援によって心理的な安心感をもたらします。
投資家の役割も重要です。近年は「スマートマネー」と呼ばれる、単なる資金提供ではなく経営ノウハウやネットワークを提供する投資が増えています。これにより、起業家は自分のビジョンを信じる根拠を強化し、困難に直面しても継続する勇気を持ちやすくなります。
エコシステムの構成要素 | 起業家への効果 |
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大学・研究機関 | 技術や人材の供給 |
行政支援 | 資金調達や規制緩和 |
投資家 | 資金と経営支援 |
コミュニティ | 孤独感の軽減、学びの共有 |
エコシステムは単に外部資源を供給する場ではなく、起業家が自分を信じ続ける心理的基盤を提供する仕組みでもあります。挑戦を支える制度やネットワークを活用することで、起業家はより強固な信念を持ち続け、不確実性の中で事業を推進できるのです。