かつて「良い製品を作れば売れる」と言われた時代は終わりました。今の顧客は、モノではなく「体験」に価値を見出しています。カフェでコーヒーを飲むのも、単に味を楽しむためではなく、空間や時間、そこに流れる雰囲気を味わうためです。このように、顧客が求める価値は「モノ」から「コト」、そして「意味」へと移行しています。
この変化に呼応するように、企業の成長戦略の中心に据えられるようになったのが「顧客体験(CX:Customer Experience)」です。CXとは、顧客が商品やサービスを認知する前から、購入、利用、再購入に至るまでの全体験の総体を指します。そしてこのCXを戦略的に設計し、全社的に推進する専門職こそが「CX人材」です。
彼らは、マーケティングや営業、開発などの垣根を越え、顧客を中心に組織を再構築する“変革の触媒”です。実際、ForresterやPwCの調査では、優れたCXを持つ企業は収益成長率や株価パフォーマンスで平均を大きく上回ることが証明されています。
本記事では、なぜCXが新規事業の鍵となるのか、CX人材が果たす役割と求められるスキル、そして国内外の成功事例までを体系的に解説します。顧客起点の価値創造が、企業の未来をどう変えるのか——その最前線に迫ります。
顧客体験(CX)が新規事業の成功を左右する理由

顧客を中心に据えた戦略は、もはやマーケティングの流行語ではなく、企業の成長を左右する経営アジェンダとなっています。近年、多くの調査が示す通り、優れた顧客体験(CX)を提供する企業ほど、収益性・株価・顧客維持率で他社を大きく上回ることが明らかになっています。
Forrester Researchの分析では、顧客中心企業は非顧客中心企業と比べて約2倍の収益成長率を実現しています。さらにWatermark Consultingの長期調査によると、CXリーダー企業はS&P500平均を3倍以上上回る株価パフォーマンスを記録しており、CXが中長期的な事業価値の源泉であることを証明しています。
この結果が示すのは、CXが単なる顧客満足度の指標ではなく、継続的な収益創出の仕組みであるという事実です。顧客が一度きりの購入で終わるのではなく、ブランドに共感し、再購入や推奨へと行動を移すことで、企業はLTV(顧客生涯価値)の最大化を実現できます。
さらに、国内市場でもCXへの注目は高まり続けています。IDC Japanの調査によると、CX関連ソフトウェア・サービス市場は2023年に約7,080億円、2028年には1兆円を突破する見込みです。これは新規事業領域においても、CXが競争優位の源泉であることを意味しています。
また、顧客体験が優れている企業ほど、新規事業の検証(PoC)や市場導入段階での成功率も高い傾向があります。理由は明確で、顧客インサイトに基づいた製品開発が行われているためです。ハーバード・ビジネス・レビューの分析でも、顧客中心型の企業は新規事業の市場定着率が平均で30%以上高いと報告されています。
つまり、CXは「既存顧客を維持するための概念」ではなく、新規事業を成功に導く羅針盤です。顧客理解からプロトタイピング、改善までを顧客の体験価値を軸に設計することで、事業は持続的な成長軌道に乗ります。製品中心から顧客中心への転換こそが、次世代の新規事業開発における最大の鍵なのです。
CX人材の登場が意味する「経営変革」の始まり
CXが経営戦略の中核に据えられる中で、企業における新たな専門職「CX人材」が急速に増えています。彼らは単なるマーケティング担当者ではなく、顧客を軸に全社の組織・プロセスを再構築する“変革の触媒”としての役割を担います。
アクセンチュアの調査では、経営層の88%が「自社は顧客の変化スピードに追いつけていない」と回答しています。市場や顧客のニーズが多様化する中、従来の縦割り組織では、部門間で顧客情報が分断され、最適な体験を提供することが困難です。この「サイロ化」を打破し、顧客接点を横断的に最適化するために生まれたのがCX人材です。
CX人材の主な役割
- 経営戦略とCX戦略を接続し、企業ビジョンを顧客体験へと翻訳する
- 部門横断で顧客データを統合し、全社的な顧客中心文化を醸成する
- データ分析をもとに施策を検証し、ROIを可視化する
特に注目すべきは、CX人材が「データ×感情」を扱うハイブリッド型の専門職である点です。彼らはデジタルツール(CRM、BI、AI分析)を駆使しつつ、顧客の感情や共感を読み解く力を持ち合わせています。PwCの調査では、CXリーダーを擁する企業の63%が「データに基づく意思決定の質が向上した」と回答しており、CX人材がデータドリブン経営の中心にいることを示しています。
さらに、求人市場でもその需要は急上昇しています。dodaの分析によると、「CXコンサルタント」「CX推進リード」といった職種は年収800万円を超える求人が増加中であり、新規事業開発領域では最も注目される職種の一つとなっています。
この潮流は、単に職種の拡大ではなく、「顧客を起点に事業を設計する」経営パラダイムへの転換を象徴しています。これまでの「製品を起点とする戦略」から、「顧客体験を起点に市場を創る戦略」へ。CX人材の登場は、企業の未来の在り方そのものを変える大きな転換点となっているのです。
CX、CS、UXの違いと関係性:体験価値を最大化する視点

顧客体験(CX)を理解するためには、まずCS(顧客満足)やUX(ユーザー体験)との違いを整理することが欠かせません。これらはしばしば混同されますが、焦点を当てる領域や目的が大きく異なります。
CX・CS・UXの比較
項目 | CX(顧客体験) | CS(顧客満足) | UX(ユーザー体験) |
---|---|---|---|
視点 | 顧客視点 | 企業視点・顧客視点 | 顧客視点 |
時間軸 | 長期的(ライフサイクル全体) | 短期的(特定接点直後) | 瞬間的(利用中) |
対象範囲 | 認知から再購入までの全接点 | 特定の取引やサービス | 特定の製品・サービス |
価値 | 感情的・心理的価値を含む総体的な価値 | 機能的な満足度 | 使いやすさ・効率性 |
主なKPI | NPS、LTV、顧客維持率 | 顧客満足度スコア、CS解決率 | エラー率、操作時間、離脱率CX人材の登場と役割に関する調査 |
UXは、特定の製品やサービスを使用する瞬間の「使いやすさ」や「操作性」に焦点を当てます。一方、CSは購入や利用後に感じる満足度を評価します。対してCXは、認知・検討・購入・利用・再購入に至るまでの顧客ライフサイクル全体をカバーし、感情的・心理的な価値を含む総合的な体験を意味します。
この概念の変化は、企業経営にも影響を与えています。三井住友フィナンシャルグループが2020年に「CS向上会議」から「CX向上会議」へと改称したのは象徴的です。単なる不満解消(CS)から、顧客と企業が共に価値を創り出す関係性(CX)へと、経営の軸足を移したことを示しています。
経営学者バーンド・H・シュミットは、CXを「感覚(Sense)」「情緒(Feel)」「思考(Think)」「行動(Act)」「関係(Relate)」の5つの経験価値に分解しました。これらが組み合わさることで、企業は顧客の感情に訴え、単なる顧客満足を超えた「ブランドファン」を生み出すことができます。
顧客体験を軸に設計された事業は、利用時の快適さ(UX)や取引後の満足(CS)を自然に高め、長期的な信頼関係へと発展します。つまり、CXはCSとUXの上位概念であり、両者を統合して企業価値を高める包括的な戦略領域なのです。
データが示すCX投資のROI:売上・株価・顧客維持率の相関
CXへの投資は感覚的な取り組みではなく、明確な財務的リターンをもたらす経営戦略です。米国Watermark Consultingによる「CX ROI Study」では、CXリーダー企業の株価リターンがS&P500平均の約3.4倍に達し、CXラガード企業は市場平均を下回る結果となりました。
この差は、CXが短期的なマーケティング効果ではなく、長期的な企業価値創造のドライバーであることを示しています。優れた顧客体験は再購入率の向上、離脱率の低下、口コミによる新規顧客獲得といった形で、持続的な収益基盤を生み出します。
CX投資がもたらす主要効果
- 売上高成長率:平均+15〜25%向上(Forrester調査)
- 顧客維持率:+30%改善(Bain & Company)
- 株価パフォーマンス:S&P500平均の3倍超(Watermark Consulting)
しかし、ROIの可視化には課題もあります。CXの成果は、売上増加やコスト削減といった財務指標に直結しにくく、NPS(推奨意向スコア)やCSAT(満足度スコア)といった主観的指標をどのように数値化するかが難題です。PwCの調査では、経営層の63%が「CX投資の効果測定に課題を感じている」と回答しています。
国内市場でもCXへの投資は拡大しています。IDC Japanの分析によれば、2023年の国内CX関連市場は約7,080億円に達し、2028年には1兆円を突破する見込みです。特にCRM(顧客関係管理)やAI分析ツールへの投資が進んでおり、企業はデータドリブンでCXを設計・改善する体制を強化しています。
また、CXリーダー企業は単なる満足度の向上にとどまらず、「顧客との共創関係」を構築している点に特徴があります。顧客の声を製品開発に反映させる仕組みや、リアルタイムで体験データを活用するOMO戦略など、CXを経営中枢に据えた企業ほど市場で高い競争力を発揮しています。
つまり、CX投資はコストではなく、企業価値を上げるための“戦略的資産”です。ROIを定量的に測定することは容易ではありませんが、顧客体験を中心に据える企業が、最終的に財務的成功を収めていることは揺るぎない事実なのです。
CX人材に求められるスキルセットとマインドセット

CX人材が組織で成果を上げるためには、データ分析のような論理的スキルと、人の感情を読み解く共感力の両方を持ち合わせる必要があります。これらはハードスキル、ソフトスキル、マインドセットという3つの柱で構成されます。
ハードスキル:データドリブンな意思決定の基盤
現代のCX戦略は、直感ではなくデータに基づいて設計されます。顧客アンケート、Webアクセスログ、購買履歴、SNSの投稿データなど、あらゆる情報を分析し、行動パターンを可視化できる力が必要です。
Google AnalyticsやTableau、Power BIといったツールを使いこなし、データを読み解くことで、CX改善の仮説を科学的に立証できます。また、統計学やデータモデリングの知識を持つことで、より高度な顧客インサイトを導き出せるようになります。
デジタルツール活用能力も欠かせません。CRM(顧客関係管理)やMA(マーケティングオートメーション)ツールを連携させ、顧客情報を統合的に管理することで、顧客ごとに最適な体験を自動提供することが可能になります。これらの技術的スキルが、CX施策を再現性のある成果へと導く基盤です。
ソフトスキル:共感と組織変革をつなぐ力
CX人材は、社内の複数部門を横断しながらプロジェクトを進めるため、調整力と共感力が求められます。特に、直接的な指揮権限を持たない中で部門間の利害を調整し、組織を一つの方向へ導く「サーバント・リーダーシップ」が不可欠です。
また、CXの本質は顧客理解にあります。顧客インタビューや観察から得られる“定性的データ”を読み解き、感情の変化や潜在的な不満を言語化できるスキルが重要です。顧客の声を数値ではなく「物語」として捉え、社内に共有することで、組織全体を顧客中心思考へと変革できます。
マインドセット:変化を恐れず、学び続ける姿勢
CX人材の本質はスキルだけでなく、変革を推進するマインドにあります。市場環境が急速に変化する中、現状維持を疑い続け、改善を繰り返す「変化志向」と、知識を貪欲にアップデートする「学習意欲」が不可欠です。
さらに、オープンマインドも重要です。自らの成功体験に固執せず、他部門や外部パートナーと協働する柔軟さが、新しい発想とイノベーションを生み出します。CX人材は単なる専門家ではなく、顧客と組織をつなぐ架け橋としての存在なのです。
AIとOMOが変えるCXの未来:2025年以降の主要トレンド
CXの世界は、テクノロジーの進化と消費者行動の変化によって劇的に変わろうとしています。特に2025年以降は、AIとOMO(Online Merges with Offline)の融合が企業のCX戦略を再定義します。
トレンド1:AIエージェントによる消費行動の変化
生成AIの進化により、AIエージェントが購買プロセスに深く関与する「エージェントコマース」が拡大しています。Shopifyの分析では、2030年までにこの市場規模は471億ドルに達すると予測されています。
AIが消費者の嗜好や過去の行動を学習し、自動で最適な商品を提案する時代において、企業は「AIに選ばれるブランド」であることが競争条件になります。AIは単に販売を支援するツールではなく、顧客との新しいインターフェースとしてCXの中心に位置づけられつつあります。
トレンド2:パーソナライゼーションとプライバシーの両立
消費者の64%が「パーソナライズにはプライバシーの明確な制御が必要」と回答しており、CX設計における新たな課題が浮上しています。企業は個人データを活用して体験を最適化する一方で、信頼を損なわない透明性の確保が求められます。
これからのCXでは、「信頼のパラドックス」を乗り越えることが鍵となります。データを安全に扱いながら、顧客に安心感と利便性を両立させることができる企業こそが、長期的な支持を獲得します。
トレンド3:OMOによるリアルとデジタルの融合
OMOは、オンラインとオフラインの区別をなくし、顧客がどのチャネルからでもシームレスに体験できる世界を実現します。たとえば、無印良品は店舗データとECデータを統合し、顧客がアプリで見た商品を店舗で即購入できる仕組みを導入しています。
このように、AIとOMOが組み合わさることで、CXは「顧客が企業に合わせる体験」から「企業が顧客に寄り添う体験」へと進化しています。これからの新規事業開発においては、テクノロジーと信頼の両輪で、顧客と共に未来をデザインするCX戦略が不可欠になるでしょう。
CXを組織に根付かせるための体制構築と成功事例
CXを企業文化として根付かせるには、一部門の努力にとどまらず、経営層から現場までを巻き込む全社的な体制構築が欠かせません。単なる顧客満足度向上施策ではなく、企業経営そのものを変革する“顧客中心経営”への転換が求められています。
経営層のコミットメントが変革の出発点
CXの定着には、トップマネジメントの明確な意思表示が第一歩です。社長や役員が「チーフ・カスタマー・オフィサー(CCO)」として自ら旗を振り、経営会議のあらゆる議題を「それは顧客にとって価値があるのか?」という問いから始めることで、全社に顧客中心思考が浸透します。
このような企業では、CXはマーケティング部門の施策ではなく、経営判断の指針として機能します。顧客視点で意思決定を行う文化が根付けば、商品開発や営業方針、人事制度までもが顧客価値に基づいた方向へと統一されます。
ハブとなるCX推進組織の設置
CXを持続的に推進するためには、全社横断の調整役として「CX推進部」や「CXタスクフォース」の設置が有効です。これらの組織は、各部門からキーパーソンを招集し、NPSなどの共通指標をもとに進捗を共有します。
この「ハブ機能」を中心に、成功事例の共有や失敗からの学びを組織全体に展開することで、全社的な学習サイクルが形成されます。また、CRMやCDPといった顧客データ基盤を整備し、データを共通言語として議論できる環境を整えることで、部門間の壁を超えた連携が実現します。
「EXなくしてCXなし」:従業員体験との連動
顧客体験を高めるためには、従業員体験(EX)の改善も欠かせません。現場従業員が自らの裁量で顧客に最適な対応を行えるよう、権限移譲を進めることが重要です。
この「支援型リーダーシップ」への転換により、従業員は当事者意識を持ち、顧客の課題解決に主体的に取り組むようになります。結果として、CXとEXが相互に高め合う好循環が生まれ、企業全体の顧客体験品質が飛躍的に向上します。
成功事例に見るCX変革の実践
例えば、トヨタ自動車は「お客様の声センター」を経営直轄組織として再編し、CXデータを経営判断に直接反映する体制を整備しました。また、ANA(全日本空輸)はCX推進部を中心に全社員が顧客視点を持つ文化を育成し、NPS向上とともに国際線収益率の改善を実現しています。
これらの企業に共通するのは、CXを“理念”として掲げるだけでなく、評価制度・会議体・データ基盤・人材育成をすべてCX起点に再設計している点です。つまり、CXは単なるマーケティング戦略ではなく、企業変革の根幹に位置する経営哲学なのです。