現代の市場では、優れた製品や低価格だけでは顧客の心をつかむことが難しくなっています。消費者はインターネットやSNSを通じて簡単に商品を比較し、選択肢は無限に広がっています。その中で企業が成長し続けるためには、単なる機能価値ではなく「どのような体験を提供できるか」が成功の鍵になります。
特に新規事業開発では、未知の市場やニーズに挑むため、初期段階から顧客体験を重視した設計が不可欠です。顧客がどのように製品やサービスと出会い、どのような感情を抱き、どんな行動を取るのかを深く理解することで、開発の方向性は大きく変わります。
本記事では、UXとCXの基本概念から、ダブルダイヤモンドモデルやリーンUXといった実践的フレームワーク、国内企業の成功事例、さらにAIやアクセシビリティなど未来のトレンドまでを徹底解説します。新規事業担当者が顧客体験を設計する力を身につけ、成功確率を高めるための知識と手法を体系的に学べる内容になっています。
顧客体験が競争力の源泉になる時代

現代の市場では、製品の機能や価格だけでは差別化が難しくなりつつあります。特にECやサブスクリプションサービスの普及により、顧客は瞬時に商品を比較し、気に入らなければすぐに離脱します。このような環境下で企業が持続的な成長を遂げるためには、顧客体験(CX)の質が競争力の中心になります。
CXとは、顧客が商品を認知する段階から購入後のサポートまで、企業と接するすべての瞬間における体験の総体を指します。顧客は単なるモノやサービスではなく、体験そのものに価値を感じて行動します。例えば、アマゾンのワンクリック購入やスターバックスのアプリによる事前注文機能は、利便性と快適さという体験を通じて顧客ロイヤルティを高めています。
マッキンゼーの調査では、顧客体験に優れた企業は競合に比べて売上成長率が3倍高いと報告されています。さらに、Forresterが行ったTotal Economic Impact分析では、CX改善に投資した企業が平均で285%のROIを達成し、3か月未満で投資回収している事例も確認されています。
特に新規事業開発では、未知の市場や課題に挑むため、早期から顧客体験を設計することが重要です。初期段階でユーザーインサイトを深掘りし、体験価値を組み込んだサービス設計を行うことで、失敗リスクを大幅に下げることができます。
- 顧客体験が優れている企業は顧客ロイヤルティが高まりLTV(顧客生涯価値)が増大
- 口コミやSNSでポジティブな拡散が起こりやすく新規顧客獲得コストが低下
- 継続的な利用とアップセル機会が増え収益性が向上
顧客体験はもはや付加価値ではなく、企業が競争優位を築くための中心的戦略といえます。
UXとCXの違いと関係性を理解する
顧客体験を設計する際には、UX(ユーザー体験)とCX(顧客体験)の違いを理解することが重要です。UXは特定の製品やサービスを利用する際の体験を指し、CXは企業と顧客のすべての接点で得られる体験の総和を指します。
項目 | UX(ユーザー体験) | CX(顧客体験) |
---|---|---|
対象範囲 | 特定の製品・サービス | 認知からアフターサポートまで |
時間軸 | 利用中の瞬間 | 顧客ライフサイクル全体 |
目的 | 使いやすさ・満足度向上 | 顧客ロイヤルティとLTVの最大化 |
具体例 | アプリの操作性、WebのUI | 広告→店舗体験→購入→サポート |
UXはCXを構成する重要な要素であり、個々のUXの積み重ねが企業全体のCXを形作ります。 例えば、アプリが直感的に操作できるかどうかはUXの領域ですが、それがスムーズで快適であれば、企業全体への好感度が上がり、結果としてCXが向上します。
歴史的にも、2000年代以降のデジタル化により、UX単体の改善だけでは差別化が難しくなり、CXという広い概念が経営戦略の中心に据えられるようになりました。特に、SNS時代では顧客が企業体験を発信する力を持っているため、ネガティブな体験はすぐに拡散します。
- UXは顧客の個別接点の体験品質を向上
- CXは全体最適を意識し、ブランド体験の一貫性を保証
- 両者を連動させることでロイヤルティと収益が最大化
新規事業開発では、プロダクトの使いやすさを追求するUXと、企業として提供する全体的な体験を設計するCXの両輪が必要です。 片方だけに偏ると、どれだけ機能的に優れたサービスでも顧客に選ばれなくなるリスクがあります。
ダブルダイヤモンド・デザイン思考・リーンUXの実践法

新規事業開発において、アイデアを現実に落とし込み、失敗リスクを最小化するためには、体系的な思考法とプロセスが欠かせません。特に注目されるのが「ダブルダイヤモンド」「デザイン思考」「リーンUX」という三つのアプローチです。
ダブルダイヤモンドは英国デザインカウンシルが提唱したフレームワークで、発散と収束を繰り返しながら課題を発見し、最適な解決策を導きます。4つのフェーズ(発見→定義→発展→実行)で構成され、特に最初の「発見」でユーザーリサーチを通じて課題の本質を深掘りすることが特徴です。最初に正しい問題を定義することで、その後の開発がブレにくくなり、無駄な投資を避けることができます。
デザイン思考は、ユーザーへの深い共感を起点に革新的なアイデアを創出する方法です。スタンフォード大学d.schoolが提唱する「共感→問題定義→創造→試作→テスト」の5ステップが有名で、ユーザーが気づいていない潜在ニーズを掘り起こす点に強みがあります。新規市場を狙う事業や、まだ解決策が存在しない課題に取り組む際に効果的です。
リーンUXは、エリック・リースのリーンスタートアップ思想をUX設計に応用したものです。「構築→計測→学習」のループを高速で回し、仮説検証を素早く繰り返します。MVP(実用最小限の製品)を用いた検証により、無駄な開発を削減し、市場適合性を早期に確認できます。
フレームワーク | 主な目的 | 特徴 | 最適な場面 |
---|---|---|---|
ダブルダイヤモンド | 課題発見と解決策創出 | 発散と収束を2回繰り返す | プロジェクト全体の指針設計 |
デザイン思考 | 潜在ニーズ発見 | 共感から始まる | 革新的な価値創造 |
リーンUX | 仮説検証を高速化 | MVPで迅速に学習 | 不確実性の高い新規事業 |
これらのフレームワークは単独ではなく、状況に応じて組み合わせるとより効果的です。例えば、課題発見にはデザイン思考、解決策検証にはリーンUX、全体の進行管理にはダブルダイヤモンドという組み合わせがよく使われます。重要なのは、ユーザーへの共感と市場での素早い検証の両立を意識することです。
ペルソナとカスタマージャーニーマップで顧客理解を深める
課題が見えてきたら、次に取り組むべきは顧客理解の解像度を高めることです。その中心となる手法が「ペルソナ」と「カスタマージャーニーマップ」です。
ペルソナとは、製品やサービスの典型的ユーザー像を具体的な人物として描く手法です。年齢、職業、生活スタイル、価値観、抱えている課題などを設定することで、抽象的な「顧客像」をチーム全体で共有できる形にします。例えば、「30代女性、共働き、時短勤務、夕食の準備に悩んでいる」というペルソナを設定すると、どんな機能やUIが必要かが明確になります。開発中に「この機能は〇〇さんにとって本当に必要か?」と問い直す基準ができることが最大のメリットです。
カスタマージャーニーマップは、ペルソナがどのように製品やサービスと出会い、利用し、評価するかを時系列で可視化します。横軸に「認知」「検討」「購入」「利用」、縦軸に「行動」「感情」「接点」「課題」を置き、各ステージでの顧客体験を詳細に記録します。
- 認知段階:どこでサービスを知るか(広告、SNS、口コミ)
- 検討段階:どんな情報を比較し、何に不安を感じるか
- 購入段階:決済や登録でつまずくポイントはないか
- 利用段階:満足して継続利用するか、離脱するか
このマッピングにより、ボトルネックとなっている体験を特定し、優先順位をつけて改善施策を設計できます。例えば、購入段階で離脱率が高いなら決済画面をシンプル化、利用段階で満足度が低いならオンボーディング施策を追加するといった改善が可能です。
ペルソナとジャーニーマップを組み合わせることで、顧客の感情に寄り添った具体的な体験設計が可能になります。 これは新規事業における失敗リスクを減らし、顧客ロイヤルティを高める最も効果的なアプローチの一つです。
プロトタイピングとユーザビリティテストで失敗リスクを減らす

新規事業開発では、アイデアを頭の中だけで検討していては市場で通用するかどうか判断できません。そこで重要になるのが、プロトタイピングとユーザビリティテストです。これらを活用することで、「誰も使わない製品」を作るリスクを早期に回避できます。
プロトタイピングは、アイデアを具体的な形にし、検証可能な試作品を作るプロセスです。初期段階では手書きスケッチや簡易ワイヤーフレームといった低忠実度のプロトタイプを作り、多くのアイデアを素早く試します。フェーズが進めば、Figmaなどのツールを用いた高忠実度のインタラクティブなプロトタイプを作成し、UIや操作性まで検証可能な状態にします。
ユーザビリティテストは、作成したプロトタイプを実際のターゲットユーザーに触ってもらい、その行動を観察する手法です。被験者にシナリオを与え、行動や発話を記録することで、どこで迷い、どこで離脱するのかを明らかにします。
- 定性的テスト:少人数を深く観察し、なぜその行動を取るのか理解する
- 定量的テスト:多数のユーザーからデータを取り、成功率や作業時間を数値化
- モデレート型:ファシリテーターが同席し質問や誘導を行う
- 非モデレート型:ユーザーが自宅などで自由に操作、より多くの参加者からデータ収集
テスト結果は、発生頻度と深刻度の2軸で整理し、改善インパクトの大きいものから優先的に対応します。米国Nielsen Norman Groupの研究では、5人のユーザーでテストすれば約85%の使い勝手の問題が発見できるとされています。早期の小規模テストを繰り返すことが、コストを抑えつつ品質を高める最も効果的な方法です。
業界別に学ぶ国内先進事例:製造業・金融・SaaS・小売
理論を理解したら、次は実際に成果を上げている企業の事例から学ぶことが重要です。日本国内でも、多くの企業がUX思考を取り入れ、顧客体験を競争優位に変えています。
製造業では、花王が「UX創造企業」への変革を宣言し、双方向プラットフォーム『My Kao』を通じてAIを活用した肌診断サービスを提供。顧客データを基盤としたパーソナライズ体験を実現しています。パナソニックは電気シェーバー開発に生成AIを導入し、人間の知見だけでは到達できなかった性能向上を実現しました。
金融業界では、住信SBIネット銀行がCXプラットフォーム「KARTE」を活用し、アプリ内行動をリアルタイム解析。特定行動のユーザーにポップアップやアンケートを配信し、クリック率を88%改善しました。さらにAIチャットボットによる24時間サポートで、顧客満足度を向上させています。
SaaS・スタートアップ領域では、出前館がデザインファームGoodpatchと共同でアプリを全面リニューアル。単なるUI刷新ではなく、「いつでも、みんなの出前館」というブランド体験を再定義し、ユーザーの行動データを基に仮説検証を高速で繰り返しました。SmartHRはSaaSアカウント管理の実態調査を行い、63.9%の担当者が退職者のアカウント管理に課題を感じていることを可視化し、解決機能を開発しました。
小売業ではユニクロがECと店舗を連携させたOMO施策を展開。アプリで在庫確認や店頭受取が可能になり、オンラインとオフラインの境界をなくしたシームレスな購買体験を実現しました。無印良品も「MUJI passport」で店舗とECを統合し、顧客マイル制度でLTVを高めています。
これらの事例に共通するのは、テクノロジーを活用して顧客接点を統合し、得られたデータを基にパーソナライズされた体験を提供している点です。 新規事業開発においても、他業界の成功事例を積極的に分析し、自社の文脈に合わせて応用することが成功への近道となります。
UXを組織文化にする「デザイン経営」とCDOの役割
優れたUXは一人のデザイナーの努力だけで実現するものではありません。組織全体の文化やプロセス、意思決定にUXを組み込む「デザイン経営」が鍵となります。 経済産業省と特許庁は2018年に「デザイン経営」宣言を発表し、デザインを企業価値創造の中心に据える重要性を提言しました。
しかし調査によると、デザイン経営を実践している日本企業はわずか10%程度とされ、DX(デジタルトランスフォーメーション)の55.4%と比べるとまだ道半ばです。障壁としては「デザイン投資の効果が見えにくい」「経営層がデザインを理解していない」「失敗を許容しない文化」「デザインを主導できる人材不足」などが挙げられます。
この状況を打破する役割を担うのがCDO(Chief Design Officer:最高デザイン責任者)です。CDOは単にデザイン部門を統括するだけでなく、経営チームの一員として事業戦略にデザイン視点を組み込む役割を果たします。
- 会社全体のデザイン戦略を策定し、ブランド体験を統一
- デザイン組織の強化や育成、採用を推進
- ユーザーの声(VoC)やデータ分析を通じて製品・サービス改善
- 経営層と現場デザイナーの橋渡し役を担う
マネーフォワードではデザイン戦略室を立ち上げ、事業横断でデザイン品質を管理。プレイドではデザインシステム「Sour」を策定し、複数プロダクト間の体験一貫性を確保しています。デザイン経営の浸透には、経営層がデザインを「コスト」ではなく「投資」と捉え、組織能力として育成する姿勢が不可欠です。
未来のUX:AI・アクセシビリティ・倫理を見据えた体験設計
UXデザインは常に進化しており、2025年以降はAIや社会的要請の変化を踏まえた新たな課題が浮上しています。未来のUXはパーソナライズ、アクセシビリティ、倫理の3つが大きなテーマとなります。
AIはUX設計のあり方を大きく変えつつあります。ユーザー行動データをリアルタイムに解析し、一人ひとりに最適なUIやコンテンツを提示する「超パーソナライズ」が可能になります。デザインツールにもAIが統合され、ワイヤーフレーム自動生成やインタビュー記録の要約など、作業効率が飛躍的に向上します。
一方で、社会は誰もが利用できる体験を求めています。ウェブアクセシビリティ規格(JIS X 8341-3)への対応や、ユニバーサルデザインを意識したUI設計は、法令遵守だけでなく新たな顧客層の獲得につながります。将来的にはAIが自動で文字サイズやコントラストを調整し、ユーザーの状況に応じて体験を最適化する時代が到来するでしょう。
さらに重要なのが倫理的配慮です。ダークパターンと呼ばれる意図的にユーザーを不利益に誘導するデザインは、短期的な収益を生むかもしれませんが、長期的にはブランド信頼を損ねます。HCD-Netが定める倫理規範では、プライバシー保護やインフォームド・コンセントの取得が求められています。
- AIによる自動化でデザイナーは戦略や創造性に集中
- アクセシビリティ対応は社会的責任と同時に市場機会
- 倫理的UXはブランド価値を守り、長期的な信頼を育む
未来のUX設計はテクノロジーと人間性の両立がテーマになります。 新規事業開発者は、最新技術を活用しつつ、誰もが安心して利用できる誠実な体験を提供することが、持続可能な事業成長の鍵となります。