現代のビジネス環境は、変動性・不確実性・複雑性・曖昧性を示す「VUCA」という言葉で象徴されるように、これまで以上に予測が困難になっています。特にAIの急速な進化や市場構造の変化は、既存の成功モデルを一瞬で時代遅れにしてしまう可能性があります。このような環境下で新規事業を成功へと導くためには、一見すると相反する二つの力が求められます。それが「強い意志」と「柔軟な適応」です。
強い意志だけでは市場の変化に取り残され、柔軟な適応だけでは方向性を見失う危険があります。両者をどのようにバランスさせ、実務に落とし込むかが新規事業開発の成否を分けると言えるでしょう。本記事では、心理学や経営学の理論、さらには日本企業の実際の事例を交えながら、この二元的マインドセットの本質を解き明かしていきます。
理論を理解するだけでなく、現場で活かせる具体的なフレームワークや実践のヒントも紹介し、読者が自らの事業推進に役立てられるように構成しています。
VUCA時代の新規事業開発に求められる二元性とは

現代のビジネス環境は、予測不可能な変化が常態化しています。変動性(Volatility)、不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)を意味するVUCAという概念は、企業が直面する環境を象徴する言葉として広く使われています。特にAIやデジタル技術の急速な進展は、従来の競争優位を一瞬で覆し、新しい市場のルールを生み出しています。
このような環境で新規事業を成功に導くには、一見すると矛盾する二つの力を両立させることが不可欠です。それが「強い意志」と「柔軟な適応」です。前者は、どんな困難に直面しても進むべき方向を見失わないための羅針盤であり、後者は市場や顧客の変化に機敏に対応するための舵取りの力です。
新規事業開発はスタート時点で多くの不確実性を抱えています。過去の研究でも、スタートアップの約70%が当初のビジネスモデルを途中で変更していることが示されています。つまり成功に至るには「一貫した目的意識」と「大胆な方向転換」の両立が求められるのです。
例えば、Slackは当初オンラインゲーム開発会社としてスタートしましたが、失敗を経験した後に社内用ツールを新事業へと発展させました。そこには「人々の仕事をより快適にする」という変わらぬビジョンがあり、同時に方向転換を受け入れる柔軟さがありました。
以下に、新規事業開発における二元性の特徴を整理します。
観点 | 強い意志 | 柔軟な適応 |
---|---|---|
中核的焦点 | ビジョン・ミッションの貫徹 | 市場ニーズ・顧客フィードバックへの対応 |
心理的基盤 | グリット(やり抜く力) | 認知の柔軟性 |
行動原理 | 粘り強い遂行 | ピボット(方向転換) |
組織手法 | ウォーターフォール型 | アジャイル型 |
このように、新規事業の成否は「意志」と「柔軟性」という相反する力のバランスにかかっています。どちらか一方に偏れば、硬直化や漂流といったリスクを招きます。両者を統合するマインドセットこそが、VUCA時代を生き抜くための鍵なのです。
強い意志を支える「グリット」と揺るぎないビジョン
新規事業開発は困難の連続です。資金不足、顧客獲得の壁、技術的課題などが次々と立ちはだかります。これらを突破するための原動力が「強い意志」です。そしてこの意志を支える二つの柱が「グリット」と「ビジョン」です。
グリットとは「やり抜く力」とも訳され、心理学者アンジェラ・ダックワースによって広められた概念です。才能やIQよりも、長期的な目標に向けた粘り強さが成功の決定要因となるという考え方です。実際、京都大学とベネッセの共同研究では、公立進学校の高校生1403人を3年間追跡した結果、学業成績の向上に最も寄与したのは「根気」であることが示されています。この知見は新規事業の推進にもそのまま当てはまります。
さらに重要なのは、グリットは単なる根性論ではないという点です。研究では「関心の一貫性」よりも「努力の粘り強さ」が成果と強く関連していると明らかになっています。つまり、最初の事業アイデアに固執するのではなく、最終的なビジョンに向けて試行錯誤を続ける力が本質的に重要なのです。
もう一つの柱であるビジョンは、組織の「北極星」となる存在です。アメリカの起業家エリック・リースが提唱するリーンスタートアップの考え方では、ビジョンを変えずに戦略を変えることを「ピボット」と呼びます。これは、新規事業の混乱期に方向性を失わずに進むための基盤です。
事例としてSlackの成功はよく知られています。オンラインゲーム開発の失敗を経て、同社は社内ツールを事業化しました。その際も「仕事をよりシンプルに、快適に」というビジョンは揺らがず、戦略を大きく転換することで成長を実現しました。
要点を整理すると以下の通りです。
- グリットは長期的な努力の粘り強さを意味する
- 成功に必要なのは関心の固定ではなく根気強い挑戦
- ビジョンは変化の中で組織を支える不変の軸
- 戦略は市場に合わせて柔軟に変更可能
新規事業の現場では、日々の困難を乗り越えるための強い意志と、方向性を示すビジョンが不可欠です。これらがなければ挑戦は途中で挫折し、組織は漂流してしまいます。強い意志を基盤に据えることで、初めて柔軟な適応も生きてくるのです。
柔軟な適応を可能にする認知の柔軟性とピボット戦略

新規事業開発において「柔軟な適応力」を発揮するための基盤は、個人が持つ「認知の柔軟性」にあります。これは状況の変化や新しい情報に応じて、自らの思考や行動パターンを切り替える能力を指します。固定観念に縛られず、多角的な視点で課題を捉えられる人ほど、革新的なアイデアを生み出しやすいのです。
実証研究でも、認知の柔軟性が高い起業家ほど市場機会を発見する力(アラートネス)が強く、自己効力感も高まり、結果的に創造性が向上することが示されています。これは、新規事業の不確実な環境において重要な競争優位となります。
こうした思考の柔軟性が組織レベルで表れる行動が「ピボット」です。ピボットとは、事業のビジョンを維持したまま戦略を大きく方向転換することを意味します。スタートアップの世界では頻繁に用いられる概念であり、失敗から逃げるのではなく、市場に合う解決策を模索する積極的な戦略行動です。
エリック・リースが提唱するピボットの型には、ズームイン(製品の一機能を独立させる)、顧客セグメント変更、収益モデル転換など10種類以上があります。例えば、YouTubeは当初オンラインデーティングサービスとして開始しましたが、利用者が動画共有に価値を見出していることに気づき、ピボットを実行したことで世界最大の動画プラットフォームへと成長しました。
ピボットを成功させるには、データに基づいた検証、適切なタイミングの判断、チームの合意形成が欠かせません。特に日本企業では既存事業に囚われやすいため、客観的に「市場に適合しているか」を見極める仕組みが重要です。
- 認知の柔軟性が高い人材は市場変化に強い
- ピボットは失敗回避ではなく学習の成果
- タイミングと合意形成が成功のカギ
柔軟に方向転換できる組織ほど、急速な変化の中で生存可能性が高まります。意志の強さと合わせて、この適応力を高めることが新規事業の持続的成長を支えるのです。
アジャイル経営がもたらす組織的適応力
ピボットが戦略レベルの大きな方向転換を指すのに対し、日々の業務レベルで柔軟に変化へ対応する仕組みが「アジャイル経営」です。アジャイルはソフトウェア開発の手法として生まれましたが、現在では企業経営や組織運営にも広く応用されています。
アジャイルの価値観は「計画よりも変化への対応」「契約よりも顧客との協働」といったシンプルな原則に基づいています。従来のウォーターフォール型マネジメントが計画通りの遂行を重視するのに対し、アジャイルは短いサイクルで試行錯誤を繰り返し、顧客のフィードバックを即座に取り入れる点が特徴です。
この仕組みは、新規事業のように不確実性の高い環境に特に有効です。市場の変化や顧客ニーズをいち早く反映できるため、事業の失敗リスクを抑えつつ価値を高め続けることが可能になります。GoogleやAmazonなど世界的企業はアジャイル的な組織運営を取り入れ、継続的なイノベーションを生み出しています。
日本でも、メルカリがアジャイル型の開発体制を採用し、サービス改善を高速に進めてきたことは有名です。短期間で仮説検証を重ね、改善サイクルを回すことで、急成長を遂げる基盤を築きました。
アジャイル経営の特徴を整理すると以下の通りです。
項目 | ウォーターフォール型 | アジャイル型 |
---|---|---|
計画 | 長期的・固定的 | 短期サイクル・柔軟 |
意思決定 | トップダウン | チーム主体 |
顧客対応 | 開発後に反映 | 開発途中から反映 |
組織構造 | 階層的・硬直的 | フラット・自律的 |
アジャイル経営を実践するためには、現場に権限を委譲し、自律的な意思決定を可能にする文化が必要です。また、失敗を学びに変える仕組みを組織に根付かせることで、変化を恐れない行動が加速します。
新規事業においては「小さく実験し、大きく学ぶ」という姿勢が重要です。アジャイル経営はその実践を組織全体で支えるフレームワークであり、柔軟な適応力を持続的に高めるための強力な武器となるのです。
エフェクチュエーションと両利きの経営:理論から実践へ

新規事業開発の現場では、従来の計画型アプローチだけでは不十分です。市場が不確実で変化が激しい環境においては、起業家が実際に取っている行動原則を理解することが重要になります。その代表的な理論が「エフェクチュエーション」です。これは、米国ヴァージニア大学のサラス・サラスバシー教授が提唱したもので、未来を予測するのではなく、自分が持つ資源やネットワークを起点に行動しながら目的を形作る思考法です。
エフェクチュエーションには「手中の鳥(今ある資源を活用する)」「許容可能な損失(失敗しても耐えられる範囲で挑戦する)」「クレイジーキルト(多様な関係者と協働する)」「レモネード(偶然を機会に変える)」「飛行機のパイロット(未来は自らの行動で創る)」という5つの原則があります。これらは新規事業の初期段階に特に有効で、限られた資源の中で小さな実験を繰り返し、学習を積み重ねることを可能にします。
一方、大企業や中堅企業では「両利きの経営」という考え方が求められます。これは既存事業を磨き上げる「知の深化」と、新しい領域を探索する「知の探索」を同時に実行する経営戦略です。コダックが既存事業に固執した結果、デジタル化の波に対応できなかった一方で、富士フイルムはフィルム事業で培った技術を医薬品や化粧品へ展開し、大きな成功を収めました。
- エフェクチュエーション:スタートアップや初期事業に有効
- 両利きの経営:既存資産を持つ大企業が持続的成長を実現するために必要
- 両者は対立概念ではなく、状況に応じて使い分ける補完関係
新規事業担当者に求められるのは、置かれた環境を正確に見極め、自社が今必要とする思考法を柔軟に選び取る力です。これにより、不確実性の高い環境でも一貫した成長戦略を描けるようになります。
日本企業の成功事例に学ぶ意志と柔軟性の両立
理論だけでは新規事業を成功に導くことはできません。実際の企業事例から、強い意志と柔軟な適応をどう両立させるかを学ぶことが重要です。日本企業にはその典型的な成功事例が数多く存在します。
富士フイルムはデジタル化によって写真フィルム事業が衰退した際、既存の研究資産を活かして医療や化粧品分野へ進出しました。これは「両利きの経営」の実践例であり、揺るぎない意志でコア技術を守りつつ、市場環境に柔軟に対応した結果です。
ミクシィはSNS事業の衰退期において、CEOの強い意志による大胆な事業構造転換を実行しました。プラットフォーム事業を手放し、ネイティブゲーム開発に注力するという決断が「モンスターストライク」の大ヒットにつながり、柔軟性と意志の両立が企業を再生に導いた好例となりました。
さらにDeNAの南場智子氏は「不完全な情報でも迅速に決断する」経営哲学を掲げ、スピードを最優先にする文化を育てました。この姿勢は市場変化に素早く対応する柔軟性を組織に根付かせると同時に、トップの揺るぎない意志によって現場を動かす力となりました。
事例から学べるポイントは以下の通りです。
- 富士フイルム:既存技術を応用し新市場を開拓
- ミクシィ:大胆なピボットによる事業再生
- DeNA:意思決定のスピードで柔軟性を確保
これらの事例は、強い意志と柔軟な適応は対立する概念ではなく、むしろ相互に補完し合う関係であることを示しています。新規事業担当者は、明確なビジョンを持ちながらも環境に応じた大胆な戦略転換を実行することで、予測不可能な時代を切り開くことができるのです。
個人と組織で育むマインドセット:心理的安全性と挑戦文化
新規事業を成功に導くには、個人の能力だけでなく、組織全体のマインドセットが大きな役割を果たします。その中でも特に注目されているのが「心理的安全性」と「挑戦文化」です。心理的安全性は、米ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授が提唱した概念で、メンバーが失敗や意見の相違を恐れずに発言できる環境を意味します。この環境が整うことで、創造的なアイデアや問題解決のアプローチが生まれやすくなるのです。
実際、Googleが行った大規模調査「プロジェクト・アリストテレス」では、高い成果を出すチームの最大の共通点は「心理的安全性」であることが明らかになりました。つまり、優秀な人材を集める以上に、メンバーが安心して意見を出せる環境づくりが重要だといえます。
さらに、新規事業開発では「挑戦文化」を育むことも欠かせません。挑戦文化とは、失敗を責めるのではなく、学習の機会として評価する組織風土を指します。経済産業省の調査でも、日本企業がイノベーションで後れを取る要因の一つとして「失敗を許容しない文化」が挙げられています。逆に言えば、失敗を受け入れ挑戦を促す環境が整えば、社員は積極的に新しい試みに挑戦できるのです。
挑戦文化を組織に浸透させるためには、以下のような取り組みが効果的です。
- 上層部が率先して失敗事例を共有し、学習に変える姿勢を示す
- 評価制度に「挑戦回数」や「改善提案」を組み込み、努力を可視化する
- 小さな実験を許容する仕組みを整え、失敗コストを最小化する
- 成功・失敗を問わず挑戦を称賛する文化をつくる
また、心理的安全性と挑戦文化は相互に影響し合います。心理的安全性があるからこそ社員は挑戦を恐れず、挑戦が繰り返されることでさらに心理的安全性が高まります。この循環が組織の学習能力を高め、新規事業の推進力となるのです。
日本企業でも実践例は増えています。ソニーでは「失敗を積極的に報告する仕組み」を導入し、そこから得られた学びを全社に共有しています。またリクルートは「新規事業提案制度」を長年運用し、社員がリスクを恐れずに挑戦できる環境を整えてきました。これらの取り組みは、心理的安全性と挑戦文化が組織全体に根付くことで、新しい価値を生み出す好例といえます。
新規事業は不確実性との戦いであり、必ずしもすぐに成果が出るとは限りません。しかし、心理的安全性と挑戦文化を両立させた組織は、一人ひとりが意欲的に試行錯誤を重ね、失敗から学びながら成長を続けることができます。このような環境こそが、未来の事業を切り開く最大の基盤となるのです。