新規事業開発に携わる方々が直面する最大の壁は、必ずしも技術や市場の不確実性だけではありません。実際には、社内の部門間対立や利害調整の難しさ、いわゆる「社内政治」が大きな障害となるケースが数多く報告されています。
Job総研の調査によると、従業員の58.3%が社内政治に否定的である一方、55.2%は必要だと回答し、その存在が避けられない現実を示しています。さらに、DX推進における障害として「部門のサイロ化」を挙げるCFOが17%を占めるなど、組織の壁が変革を阻む要因となっていることは明らかです。
特に日本企業においては、ハイブリッドワークの普及によって偶発的なコミュニケーションが減少し、部門間の連携不足が一層深刻化しています。この状況において、新規事業開発を成功に導くためには、従来の「縦割り」を超えた新しい交渉術が不可欠です。
本記事では、ハーバード流交渉術をベースに再構築された「横串交渉術」を取り上げ、データや事例を交えながら実践的な方法論を紹介します。社内政治を「建設的な利害調整」へと転換し、組織全体で成果を最大化するためのヒントをお届けします。
社内政治が新規事業を阻む理由とは

新規事業開発において最初に直面する壁は、必ずしも外部環境や市場競争ではなく、社内の利害対立や政治的な駆け引きです。Job総研が2024年に実施した調査によると、従業員の58.3%が「社内政治に反対」と回答する一方で、55.2%が「必要」と回答し、両者が拮抗する「必要性のパラドックス」が浮き彫りになりました。さらに、96.6%が「社内政治は出世に関係する」と考えており、現実として無視できない存在であることが分かります。
この矛盾は、新規事業開発を進める上で特に深刻な影響を及ぼします。なぜなら、新規事業は不確実性が高く、明確な前例や評価基準が存在しないため、成果だけで評価されにくいからです。その結果、プロジェクト推進に必要なリソース獲得や意思決定において、**「成果」だけでなく「影響力」や「根回し力」**が大きな役割を果たしてしまうのです。
箇条書きで整理すると以下のようなリスクがあります。
- 評価基準が曖昧なため、成果よりも政治力が重視される
- 部門間の派閥や利害調整に時間を奪われ、スピードが失われる
- 不透明な調整プロセスがメンバーのモチベーションを低下させる
さらに、調査では「適切な評価が行われなくなる」(63.5%)、「意識が分散し生産性が下がる」(51.5%)、「ストレスや意欲に影響する」(48.0%)といった回答が上位に挙げられています。つまり、社内政治が新規事業に与える最大の影響は、組織全体の意思決定スピードと従業員の意欲を奪うことにあります。
新規事業はスピードが命です。市場環境が急速に変化する中で、社内調整に過度な時間を費やすことは致命的です。したがって、従来の「暗黙の根回し」ではなく、透明性と正当性を重視した交渉プロセスへ移行することが、新規事業の成功確率を高める唯一の方法と言えます。
サイロ化が生む停滞と新規事業の失敗リスク
次に、新規事業開発を阻む大きな要因として挙げられるのが組織のサイロ化です。サイロ化とは、部門同士が孤立し情報共有や協力が難しくなる状態を指します。日本企業の多くは縦割り組織が根強く残っており、各部門が自部門最適に走る結果、全体の整合性が崩れてしまうのです。
Coupa社と日本CFO協会が2025年に行った調査によると、CFOがDX推進の障害として「部門のサイロ化」を17%が挙げており、デジタル人材不足に次ぐ大きな課題とされています。このデータは、サイロ化が単なる非効率ではなく、企業変革そのものを阻害する深刻な構造的問題であることを示しています。
サイロ化が新規事業に及ぼすリスクは多岐にわたります。以下の表にまとめます。
リスク | 具体的影響 |
---|---|
情報共有不足 | 顧客データが分断され、全社的な戦略立案が困難になる |
重複業務 | 部門ごとに同じ施策を繰り返し、コストと時間を浪費する |
意思決定の遅延 | 必要なデータ集約に時間がかかり、判断が遅れる |
従業員エンゲージメント低下 | 他部門との摩擦がストレスとなり、働く意欲を削ぐ |
特に従業員への影響は深刻です。ギャラップ社の「グローバルワークプレイスの現状」レポート(2024年)によれば、日本の「熱意あふれる社員」の割合はわずか6%で、世界平均23%を大きく下回っています。この背景には、自分の仕事が組織全体にどう貢献しているのか見えにくいサイロ化環境があるのです。
新規事業開発においては、営業・開発・マーケティング・経理など多様な部門の協力が不可欠です。ところが、サイロ化が進んだ組織では利害調整に膨大な時間がかかり、機会損失が発生します。結果として、市場に投入するタイミングを逃し、競争力を失うことになります。
このように、サイロ化は単なる内部効率の問題ではなく、新規事業そのものを失敗に導く根本原因となり得ます。だからこそ、部門横断的なコミュニケーションと透明性ある交渉プロセスの導入が、新規事業成功のために不可欠なのです。
ハイブリッドワーク時代の連携課題と解決の方向性

コロナ禍を経て、多くの企業でテレワークと出社を組み合わせたハイブリッドワークが定着しました。柔軟な働き方は従業員満足度や生産性の向上に寄与する一方で、部門間のコミュニケーション不足という新たな課題を浮き彫りにしています。レンズアソシエイツの調査によると、経営者や役員の70.3%が「部門の垣根を超えたコミュニケーションが難しくなった」と回答しており、偶発的な対話の減少が深刻化していることが分かります。
リモート環境では、オフィスでの雑談や立ち話といった非公式なやり取りが減少します。その結果、部門間での理解や信頼関係が築きにくくなり、誤解や摩擦が増える傾向にあります。アトラシアン社の調査では、日本の従業員がハイブリッド環境下でチーム連携に課題を感じる割合は世界平均の2倍に達しており、既存のサイロ化問題をさらに悪化させているのです。
こうした課題を解決するには、単なるツール導入ではなく、意図的で体系的な連携プロセスの設計が求められます。具体的には次のような施策が有効です。
- 定期的なクロスファンクショナル会議やワークショップの開催
- 部門横断的なオンラインコミュニティや情報共有プラットフォームの活用
- 意思決定プロセスにおける「誰が、何を、いつ行うのか」の明確化
特に新規事業開発においては、営業・開発・IT・マーケティングといった多様な部門が連携する必要があるため、偶然の会話に頼らず、利害調整を前提とした仕組み化が不可欠です。
ハイブリッドワークの浸透はもはや不可逆的です。その中で企業が成果を上げるためには、「自然に協力が生まれる」環境を待つのではなく、明確な合意形成と横断的な調整スキルを制度として組み込むことが鍵となります。
横串交渉術の基本原則:利害調整を組織全体の成果へ
新規事業を推進するには、従来の「自部門の立場を主張する交渉」から脱却し、組織全体の利益を最大化する利害調整へと進化する必要があります。その理論的基盤となるのが、ハーバード大学交渉学プロジェクトが提唱する「原則立脚型交渉(Principled Negotiation)」です。これを日本企業の文脈に再構築したものが「横串交渉術」であり、部門横断的な協力を引き出す強力なフレームワークとなります。
横串交渉術は次の7つの要素から成り立ちます。
要素 | 概要 | 新規事業での適用例 |
---|---|---|
利害(Interests) | 立場の裏にある真の関心を理解 | 営業部が値引きを要求する理由は「顧客維持のため」 |
選択肢(Options) | 双方の利益を満たす解決策を複数提示 | 割引に代わり長期契約やサービス追加を検討 |
正当性(Legitimacy) | 客観的な基準に基づく判断 | 業界ベンチマークや社内規定を参照 |
関係(Relationship) | 人と問題を分離し関係を維持 | 対立しても人格攻撃を避ける |
コミュニケーション | 双方向の対話と積極的傾聴 | 背景や懸念を共有し相互理解を促す |
BATNA | 交渉決裂時の代替案を把握 | 他顧客案件への注力という選択肢を持つ |
コミットメント | 明確で実行可能な合意形成 | 「誰が・何を・いつまでに」を具体化 |
このアプローチの特徴は、ゼロサム的な勝敗を競うのではなく、Win-Winの解決策を共創する点にあります。例えば、営業部と財務部の対立では「割引を認めるか否か」ではなく、「どの条件なら利益と顧客維持を両立できるか」に焦点を当てるのです。
専門家によれば、こうした原則立脚型の交渉は、感情的な対立を抑え、長期的な信頼関係を築く上で効果的であるとされています。日本文化における「和」を重視する価値観とも親和性が高く、新規事業のように部門を超えた協力が求められる場面に最適です。
つまり横串交渉術は、単なる交渉テクニックではなく、組織全体で成果を出すための戦略的コミュニケーション手法なのです。これを定着させることで、社内政治の負の側面を超え、全社的な価値創造につなげることが可能になります。
健全な「根回し」と合意形成のプロセス設計

日本のビジネス文化で頻繁に語られる「根回し」は、時に不透明な密室調整として批判の対象となります。しかし本来の根回しは、利害関係者と事前に方向性をすり合わせ、合意形成を円滑に進めるための重要な準備プロセスです。これを現代的に再解釈し、透明性と客観性を重視した「健全な根回し」として活用することが、新規事業開発の成功を大きく左右します。
健全な根回しのステップ
- 主要ステークホルダーの特定:権限を持つ人物、影響力を持つ部門、潜在的な反対者を洗い出す
- 個別対話の実施:1on1の場で提案内容を共有し、懸念点や利害を深く理解する
- 利害と正当性の明確化:データや事例を提示し、論理に基づいた納得感を醸成する
- 支持連合の形成:フィードバックを取り入れ、修正を加えることで協力者を増やす
このプロセスを通じて、公式会議の前に共感と支持を積み重ねることができ、会議本番での合意形成がスムーズに進みます。
合意形成プロセスの設計
合意形成は単なる「会議」ではなく、準備・進行・フォローアップの三段階で構成されます。準備段階ではアジェンダと到達目標を明確にし、進行段階では中立的なファシリテーターが議論を整理します。さらに、フォローアップ段階では「誰が、何を、いつまでに行うか」を明文化した議事録を迅速に共有することが不可欠です。
このように健全な根回しとプロセス設計を融合させることで、不透明な調整は「組織全体の利益を最大化するための戦略的コミュニケーション」へと進化します。結果として、利害の対立は建設的な議論へと変わり、実行力のある意思決定を可能にするのです。
ケーススタディ:DXプロジェクトを成功させた横串交渉術
理論だけでは新規事業や変革を進めることはできません。実際の事例から学ぶことで、横串交渉術の実践的な有効性が明らかになります。その代表例が、全社的なDXプロジェクトにおける部門間交渉の成功事例です。
シナリオ:全社統合CRMシステム導入
ある企業が顧客管理システムを刷新しようとした際、営業、マーケティング、経理、IT部門それぞれが異なる要求を抱えていました。営業部は「入力が簡単で使いやすいシステム」を望み、マーケティング部は「高度な分析機能」を要求、経理部は「正確なデータ連携」を重視し、IT部は「セキュリティと拡張性」を最優先としていました。
横串交渉術の適用プロセス
- 健全な根回し:各部門のキーパーソンと個別面談を行い、表面的な立場ではなく真の利害を把握
- ワークショップ:複数部門を集めて選択肢を共同で検討(例:簡易入力と詳細入力を分離した方式)
- 正当性に基づく判断:業界ベンチマークやパイロット導入データを提示し、納得感を高める
- コミットメント:最終的に「誰が・何を・いつまでに実行するか」を明文化した合意を形成
成果と学び
このプロジェクトでは、導入後に報告書作成時間が40%削減されるなど具体的な成果が現れました。何よりも、各部門が自分たちの声が反映されたと感じたことで、システム活用へのモチベーションが高まりました。
専門家は、このような成功事例が示すのは「横串交渉術は対立を克服するだけでなく、組織全体の納得感を伴う変革を実現するフレームワークである」という点だと指摘しています。新規事業やDXの推進において、このような実践的アプローチは今後ますます不可欠となるでしょう。
持続的な横串文化を根付かせるリーダーシップと仕組み
横串交渉術を一時的なプロジェクト対応にとどめず、組織文化として定着させるためには、リーダーシップと制度設計の両輪が欠かせません。短期的には成功しても、日常業務に戻ると従来の縦割りや派閥構造が復活するのはよくあるケースです。これを防ぐには、経営層が明確に方向性を示し、制度として仕組みに組み込む必要があります。
リーダーシップの役割
横串文化を根付かせるリーダーには、従来型の「指示命令型」ではなく、水平型ファシリテーターとしての資質が求められます。具体的には以下の3つが重要です。
- 中立的な立場で部門間の利害を調整する力
- メンバーの声を引き出し、建設的な議論に変換する力
- 成果を個人ではなく組織全体に帰属させる姿勢
ハーバード・ビジネス・レビューでも、現代のリーダーに必要な能力として「調整力」と「傾聴力」が強調されています。これは日本企業の新規事業開発においても同様で、成果よりも関係性を重視しながら全体を前進させるリーダー像が求められているのです。
仕組みとしての制度設計
文化を浸透させるには制度化が有効です。例えば、以下のような取り組みが考えられます。
仕組み | 具体的内容 | 効果 |
---|---|---|
部門横断チームの設置 | 新規事業ごとに各部門から代表を選出 | 多様な視点を早期に取り込み摩擦を軽減 |
評価制度の連動 | 個人業績だけでなく横断的貢献を評価 | 協力行動へのインセンティブを付与 |
定期的な合意形成ワークショップ | プロジェクトの節目ごとに関係者を集める | 対立を早期に顕在化させ解決策を共創 |
ナレッジ共有の仕組み | 成功・失敗事例をデータベース化 | 組織学習を促進し再現性を高める |
特に評価制度との連動は効果的です。ギャラップ社の調査によれば、チーム協力を評価する仕組みを持つ企業は、そうでない企業に比べて生産性が21%高いと報告されています。
横串文化を持続させる条件
最終的に横串文化を定着させるには、「トップダウン」と「ボトムアップ」の両面からのアプローチが必要です。経営層が横断的な取り組みを推奨しつつ、現場がそれを実際のプロジェクトで体感し成功体験を積み重ねる。このサイクルを回すことで、横串交渉術は一過性のスローガンではなく、日常の仕事の進め方そのものへと変わっていきます。
新規事業の推進は常に不確実性とリスクを伴います。しかし、組織文化として横串の連携を根付かせることができれば、そのリスクを分散し、挑戦を持続可能なものへと変えることができるのです。