現代のビジネス環境は、かつてのように予測可能な未来を前提に戦略を立てる時代ではありません。地政学的リスクや生成AIの急速な普及、気候変動といった要素が複雑に絡み合い、企業はかつてないほど不確実な状況に直面しています。
こうした時代において、過去の成功体験や緻密な長期計画に頼るだけでは競争優位を維持できません。むしろ、不確実性をリスクとして回避するのではなく、価値創造の源泉として積極的に活用する姿勢が求められています。
新規事業開発の現場では、計画通りに進まないことが当たり前です。だからこそ、個人の心理的基盤を整え、変化を楽しみながら進めることが重要になります。本記事では、起業家の思考様式を体系化したエフェクチュエーション、科学的アプローチで仮説検証を行うリーンスタートアップ、そして顧客に深く共感するデザイン思考といった3つの羅針盤を紹介します。
さらに、両利きの経営による組織戦略や、日本企業特有の文化的課題を踏まえた実践的アプローチを解説し、個人と組織が不確実性を楽しみながら未来を切り拓くためのヒントを提供します。
不確実性を楽しむことがなぜ今のビジネスに必要なのか

現代のビジネス環境は、もはや過去の延長線上で未来を予測できる時代ではありません。気候変動や地政学的リスク、生成AIやWeb3といった破壊的技術の登場が重なり、変化はますます加速しています。
経営学ではこの状況を「VUCA」と呼び、変動性(Volatility)、不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)の頭文字で表現します。つまり、不確実性はもはや例外ではなく前提条件なのです。
日本企業は特にこの変化への対応に苦戦しており、公益財団法人日本生産性本部による国際比較では、2023年の日本の時間当たり労働生産性はOECD加盟38カ国中29位と低迷しています。さらに、日本の開業率は5.1%と欧米諸国に比べて著しく低く、新しい事業の創出力が弱い現状が明らかです。
この状況は、既存事業の効率化には長けている一方で、新しい価値を創造する「探索」の力が不足していることを示しています。このような時代では、完璧な計画を立てるよりも、変化に柔軟に対応できる思考と行動が求められます。
不確実性を恐れるのではなく、学びや発見の機会として活用する姿勢が競争優位性となるのです。PwCコンサルティングの調査によれば、日本企業で新規事業開発がうまくいっていると答えた割合は3割に満たず、多くの企業が試行錯誤を繰り返しています。この現実は、企業が不確実性への向き合い方を変革する必要性を物語っています。
不確実性を楽しむというマインドセットは、単なる精神論ではありません。予測が困難な状況下で行動を起こし、仮説を検証しながら前進することで、結果的にリスクを低減し、イノベーションの可能性を高めます。特に新規事業開発では、最初から完璧な答えは存在しないため、試行錯誤を前提とした思考法こそが未来を切り拓く鍵となります。
曖昧さへの耐性とネガティブ・ケイパビリティがもたらす心理的基盤
不確実性を楽しむためには、まず個人の内面にある心理的基盤を整える必要があります。心理学では「曖昧さへの耐性(Tolerance of Ambiguity)」という概念が知られており、これは白黒つけられない状況にどれだけ耐えられるかを示す特性です。
曖昧さへの耐性が高い人は、不完全な情報や矛盾した状況を脅威ではなくチャンスと捉え、冷静に対応できます。逆に耐性が低い人は、明確なルールを求め、結論を急ぎすぎる傾向が強く、思考停止に陥りやすくなります。
研究によれば、曖昧さへの耐性が高い人材はリーダーシップや創造性に優れ、複雑な問題を多角的に捉えて解決策を導き出す能力に長けています。また、曖昧な状況に前向きに挑戦することで幸福感も高まり、ストレス耐性が強化されることが報告されています。
加えて注目すべきは「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念です。これは、答えが出ない状況に耐え続ける力を指し、性急な結論に飛びつかずに不可解な状況と共にいることで、より深い洞察を得る能力です。デザイン思考における「共感」や「問題定義」のプロセスでは、この力が不可欠です。ユーザー自身も気づいていない潜在的な課題を発見するには、あえて結論を急がず、状況を観察し続ける姿勢が求められます。
心理的基盤を整える方法としては、意図的に不確実なプロジェクトに参加する、マインドフルネスを実践して感情の波を客観的に観察する、認知のリフレーミングで「不確実性=脅威」という思考を「不確実性=学びの機会」に変えるなどがあります。これらの実践を通じて、不確実性を恐れる心から、不確実性を活かす心へとシフトすることが可能になります。
さらに、チームや組織全体で心理的安全性を醸成することで、メンバーが安心してアイデアを出し、失敗から学べる環境を整えることが重要です。心理的基盤と環境が整ったとき、初めて「不確実性を楽しむ」という企業文化が実現します。
エフェクチュエーション:手持ちの資源から未来を創る起業家思考

エフェクチュエーションは、米国の経営学者サラス・サラスバシーが優れた起業家の思考プロセスを分析して体系化した理論です。このアプローチは、未来を予測するのではなく、コントロールできる要素に働きかけることで望ましい未来を創り出すという発想に基づいています。ゴールから逆算するのではなく、手元の資源から何ができるかを考えるのが特徴です。
エフェクチュエーションでは、次の三つの資源から出発します。
- 私は誰か(Who I am):価値観や能力、強み
- 何を知っているか(What I know):知識やスキル、経験
- 誰を知っているか(Whom I know):人脈やネットワーク
これらを基に、5つの行動原則が導かれます。
- 手中の鳥の原則:今ある資源でまず行動する
- 許容可能な損失の原則:失敗した時に許容できる損失を基準に意思決定
- クレイジーキルトの原則:協力者を巻き込み、共同で未来を形作る
- レモネードの原則:予期せぬ出来事をチャンスに変える
- 飛行機のパイロットの原則:コントロールできる範囲に注力する
この理論は、新規事業開発の初期段階、つまり市場も顧客も明確でない0→1のフェーズで特に有効です。たとえば、社内起業制度で採択されたプロジェクトが、手元の技術や既存顧客との関係を活用し、予想外の市場ニーズを掘り起こして成功する事例は珍しくありません。完璧な計画を立てるよりも、小さな一歩を踏み出し、学習しながら軌道修正するほうが結果的に成功確率が高まるのです。
リーンスタートアップ:MVPと仮説検証で不確実性を科学する
リーンスタートアップは、エリック・リースが提唱した新規事業開発の手法で、製品開発を科学的な仮説検証プロセスとして捉えます。目的は、顧客が本当に価値を感じるものを最小のコストと時間で見極めることです。「構築-計測-学習」のサイクルを高速で回すことで、思い込みによる失敗を避けることができます。
中心となるのがMVP(Minimum Viable Product:実用最小限の製品)です。MVPは完成品ではなく、仮説を検証するための実験道具です。たとえば、フル機能のアプリを作る前に、簡易版のプロトタイプやランディングページを公開し、ユーザーの反応を数値で計測します。
- 構築:仮説を検証するためのMVPを作る
- 計測:ユーザーの行動や反応を定量的に収集
- 学習:データから仮説の正否を判断し、方向性を継続か転換(ピボット)か決定
この方法は、特に不確実性が高い市場や、顧客ニーズがまだ明確でない新規事業に適しています。国内ではメルカリがMVPを通じてユーザー体験を磨き込み、サービスの成功につなげた事例が知られています。
一方で注意点もあります。MVPの品質が低すぎるとブランドを毀損するリスクがあり、顧客の声に振り回されすぎてビジョンを見失う危険もあります。したがって、データと直感のバランスを取りつつ、学びを最大化するプロセスを設計することが重要です。
リーンスタートアップは、エフェクチュエーションの「行動を起点に未来を創る」という思想と親和性が高く、両者を組み合わせることでより実践的な新規事業開発のフレームワークとなります。
デザイン思考:顧客の潜在ニーズを発見する人間中心アプローチ

デザイン思考は、複雑で定義が曖昧な課題に取り組むための強力なアプローチで、特に顧客の潜在ニーズを掘り起こす場面で威力を発揮します。スタンフォード大学d.schoolが提唱する5段階プロセスが有名で、共感・問題定義・創造・プロトタイプ・テストを繰り返すことで、ユーザーの真の課題を発見します。論理や数値では捉えきれない感情や行動に深く入り込むことで、新たな価値創造の糸口をつかむことができます。
デザイン思考の特徴は、最初から正しい解を求めるのではなく、仮説を広げてから絞り込む「発散と収束」を繰り返す点にあります。ユーザーインタビューや観察を通じて現場の文脈を理解し、得られた情報からペルソナやカスタマージャーニーマップを作成して課題を具体化します。その後、ブレインストーミングで多様なアイデアを出し、プロトタイプを素早く作り、ユーザーに試してもらうことで学習します。
デザイン思考は、既存市場が成熟し顧客ニーズが顕在化していない分野で特に有効です。たとえば、アップルはiPodやiPhoneの開発において、単に技術を売り込むのではなく、ユーザーがどのように音楽や情報を体験したいかという潜在的欲求に着目しました。このアプローチは、日本企業でも広がりつつあり、トヨタやパナソニックなどが新規事業開発のプロセスに取り入れています。
また、デザイン思考はチームの多様性を活かすことが前提となります。エンジニア、デザイナー、マーケターといった異なる視点を持つメンバーが協働することで、革新的なアイデアが生まれやすくなります。重要なのは、失敗を恐れずに試す「心理的安全性」を確保することです。これにより、組織全体が実験と学習を重ねながら成長する文化を醸成できます。
両利きの経営:既存事業と探索型事業を両立する組織戦略
個人が不確実性を楽しむ思考法を身につけても、それを活かせる組織環境がなければイノベーションは育ちません。そこで注目されるのが「両利きの経営」です。これは、既存事業の効率化を進める「知の深化」と、新たな事業機会を探索する「知の探索」を同時に実現する経営スタイルを指します。短期的な利益と長期的な成長をバランスさせることが競争力の源泉になるのです。
両利きの経営を実践するには、まず探索活動を既存事業から分離し、独立した意思決定と評価基準を持つ部門を設けることが重要です。AGC(旧旭硝子)は、CEO直轄の事業開拓室を設立し、新規事業に特化した組織文化を構築しました。これにより、既存事業の論理に縛られず、ライフサイエンスやモビリティといった新領域に挑戦する体制が整いました。
一方で、探索部門が孤立しすぎるとスケール化が難しくなるため、親会社の持つ技術や人材、顧客基盤といった資源を戦略的に活用できる「統合」も欠かせません。経営トップが両者を橋渡しし、リソース配分や連携を促進することが求められます。
日本企業では、富士フイルムが写真フィルム事業で培った技術を医療・化粧品分野に応用して成功を収めました。これは、深化した知を探索に活用した好例です。両利きの経営は、探索と深化の双方を戦略的にデザインすることで、企業が長期的に進化し続けるための強力なフレームワークとなります。
また、社内ベンチャー制度やイントラプレナーシップを活性化することで、従業員一人ひとりが探索活動に参画しやすい環境を整えることも有効です。組織全体で「実験を歓迎する文化」を育むことで、不確実性がもたらすチャンスを最大限に活かせる体制が整います。
日本企業が直面する文化的障壁と変革の兆し
日本企業が新規事業開発に取り組む際、最大の課題となるのが文化的障壁です。長期雇用や年功序列、失敗を避ける文化は、既存事業の安定運営には有効ですが、探索型の事業開発とは相性が良くありません。
新しい挑戦には一定の失敗が伴いますが、評価制度が失敗を許容しないと、社員はリスクを取らなくなります。結果として、イノベーションの芽が社内で摘まれてしまうことが少なくありません。
近年の調査では、日本企業の約60%が「失敗を恐れる文化が新規事業開発の障害になっている」と回答しています。さらに、意思決定のスピードが遅い、縦割り組織で部門間連携が難しいといった声も多く聞かれます。これらは不確実性の高い環境では致命的な遅れを生む要因となります。
しかし、変革の兆しも見え始めています。ソニーは社内ベンチャー制度を通じて、社員が自ら事業アイデアを提案し、一定期間は本業から離れて挑戦できる仕組みを整えました。
パナソニックもCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)を設立し、スタートアップとの協業を推進しています。このような動きは、外部とのオープンイノベーションや、失敗から学ぶ姿勢を企業文化として浸透させる試みといえます。
さらに、経営層自らが新規事業開発の意義を社内に発信し、成功事例や失敗事例を共有することで心理的安全性を高める取り組みも進んでいます。これにより、現場の社員が「挑戦しても大丈夫だ」と感じる土壌が整いつつあります。
個人・チーム・組織で実践する「不確実性を楽しむ」スキル育成法
不確実性を楽しむためには、個人・チーム・組織それぞれのレベルで具体的なスキルを身につけることが重要です。個人レベルでは、まず好奇心を持ち続けることが基本となります。日常的に異分野の情報に触れたり、少額で試せる副業や小さなプロジェクトに参加することで、不確実性に慣れていきます。小さな実験を積み重ねることで、未知の状況に対する心理的耐性が育ちます。
チームレベルでは、心理的安全性の高い環境をつくることが第一歩です。Googleの「プロジェクト・アリストテレス」の研究によれば、心理的安全性はチームのパフォーマンスに最も強い相関がある要素とされています。会議での発言機会を均等にする、失敗を責めず学びに変えるといった文化が不可欠です。
組織レベルでは、探索活動に資源を投下する明確な意思表示が求められます。たとえば、イントラプレナー向けの研修や、社内アクセラレータープログラムを用意することで、挑戦する人材を育成します。さらに、成果を短期的な収益だけでなく、学習や仮説検証の進捗で評価する仕組みを導入することが重要です。
実践のステップとしては、
- 個人:マインドフルネスやリフレクションで感情を客観視
- チーム:定期的な振り返りミーティングで学びを共有
- 組織:失敗事例の社内共有と称賛文化の定着
といった取り組みが効果的です。これらを継続することで、組織全体が変化を前向きに受け入れ、試行錯誤から学ぶ力を高めていきます。結果として、不確実性を恐れる組織から、不確実性を武器にする組織へと進化することが可能になります。