「新規事業が単発で終わる」「PoCは回るが事業化しない」――そんな悩みを抱えていませんか。
多くの企業がアイデア創出には成功しても、継続的にヒットを生み出す“仕組み”までは設計できていないのが現実です。
一方で、JiraやConfluenceで知られるアトラシアンは、R&Dに売上の約半分を投資しながら、ShipIt、Point A、戦略的M&A、Marketplaceという複数のエンジンを同時に回し、持続的に新規事業を創出しています。
さらに近年は、Teamwork GraphとAIエージェント「Rovo」を軸に「仕事の文脈」そのものを資産化し、プロダクト主導型成長(PLG)を次の段階へと進化させています。
本記事では、同社の財務構造、組織設計、事業開発プロセス、M&A戦略、日本企業の活用事例までを体系的に整理し、新規事業責任者が自社に応用できる具体的な示唆を抽出します。
読み終えたとき、自社のイノベーションパイプラインを再設計するための実践的な視点が手に入るはずです。
- なぜアトラシアンは新規事業を連続的に生み出せるのか
- PLGとフライホイールモデルが支える成長の財務構造
- R&D比率約47%という異端の投資戦略と失敗許容の設計
- ShipIt:全社員参加型ハッカソンが生むボトムアップの実験文化
- Point A:70/20/10で設計された社内インキュベーション制度
- Jira Product Discovery・Compass・Atlasに見る事業化の実例
- 戦略的M&Aの本質──“コンテキストレイヤー”を押さえる買収哲学
- LoomとBrowser Company買収が示すAI時代のデータ戦略
- Teamwork GraphとRovo:仕事の文脈を資産化するAI基盤
- MarketplaceとAtlassian Venturesが拡張するエコシステム経営
- 日本企業の変革事例:メルカリ・LIXIL・LINEヤフーの実践
- 新規事業責任者への戦略的示唆:構造でイノベーションを設計する方法
- 参考文献
なぜアトラシアンは新規事業を連続的に生み出せるのか
アトラシアンが連続的に新規事業を生み出せる最大の理由は、アイデアの量ではなく、イノベーションを制度として設計している点にあります。単発の成功に依存せず、財務・文化・プロセスを一体化させた構造を築いていることが、再現性の源泉です。
その土台となるのが、Product-Led Growth(PLG)を中核に据えた資源配分です。OpenView Partnersによれば、PLG企業は製品そのものを成長エンジンとしますが、アトラシアンはこれを財務構造レベルで徹底しています。
Salesforceなどが売上の30〜50%をセールス・マーケティングに投じるのに対し、アトラシアンは歴史的に15〜20%程度に抑え、その分を研究開発へ再投資しています。
| 指標 | 一般的なB2B SaaS | アトラシアン |
|---|---|---|
| S&M比率 | 30〜50% | 約15〜20% |
| R&D投資(2025年) | 非公開/企業差大 | 約26.7億ドル |
| R&D前年比成長率 | 企業差大 | +22.2% |
Macrotrendsのデータが示す通り、2025年度のR&D投資は約26.7億ドルに達し、売上の約47%という異例の水準を維持しています。この規模の継続投資が、「失敗しても次がある」という前提を組織に与えます。
次に、文化と制度を接続する二層構造です。四半期ごとのハッカソン「ShipIt」で全社員が実験を行い、そこから生まれた有望な種を「Point A」で選抜・育成します。
Point Aでは、探索段階からエグゼクティブスポンサーの獲得が必須であり、将来的に1億ドル規模へ成長し得るかという基準で審査されます。さらに「Where to play, How to win」を明確に説明できなければ前進できません。
加えて、新規事業は単体収益ではなく、既存製品群を回すフライホイールの駆動力として設計されています。JiraやConfluenceの利用拡大がエコシステムを活性化し、Marketplaceの売上は累計20億ドルを超えました。
つまり、新規事業は孤立した賭けではなく、既存基盤に接続され、クロスセルとデータ蓄積を通じて全体価値を押し上げます。この構造があるからこそ、成功確率は累積的に高まります。
財務的余力、制度化された選抜プロセス、そしてプラットフォーム連動型の設計。この三位一体の仕組みが、アトラシアンを「偶然ヒットを出す企業」ではなく、必然的に新規事業を生み出す企業へと進化させているのです。
PLGとフライホイールモデルが支える成長の財務構造

Atlassianの成長を支えているのは、単なるプロダクトの人気ではありません。中核にあるのは、PLG(Product-Led Growth)を前提に設計された財務構造と、それを加速させるフライホイール型の収益循環です。
一般的なB2B SaaSが売上の30〜50%をセールス・マーケティング費用に投じるのに対し、Atlassianは歴史的に15〜20%程度に抑制してきました。OpenView Partnersによれば、PLG企業は製品自体が獲得・拡張の役割を担うため、S&M比率を低く保てる傾向があります。
その代わりに、同社は研究開発へ大胆に投資しています。
| 会計年度 | R&D投資額 | 前年比成長率 |
|---|---|---|
| 2023年 | 18.7億ドル | – |
| 2024年 | 21.8億ドル | +16.8% |
| 2025年 | 26.7億ドル | +22.2% |
Macrotrendsの財務データが示す通り、R&D投資は年々拡大しています。売上高の約47%という高水準を維持するこの配分こそが、PLGを財務的に裏付ける基盤です。
製品が営業を代替し、浮いた資本を再び製品に投じる。この循環が、同社のフライホイールを回転させます。JiraやTrelloは小規模チームがクレジットカードで導入でき、無料プランが自然なエントリーポイントになります。
利用が広がると、ConfluenceやJira Service Managementへのクロスセルが発生し、顧客単価が上昇します。さらにユーザー基盤の拡大はMarketplace開発者を呼び込み、エコシステムが拡張されます。パートナーエコシステムが成長を加速させるとAtlassian自身が説明している通り、この外部価値の増幅が次の顧客獲得を後押しします。
重要なのは、このモデルが単なる効率化ではない点です。潤沢なR&D比率は、失敗を前提にした挑戦を可能にします。Point Aのように将来的に1億ドル規模を狙う構想に投資できるのは、短期的な営業回収に依存しない構造があるからです。
株主向けレターでも示されている通り、AI機能やクラウド移行は有償シート拡大や上位プランへの移行を促進しています。つまり、成長ドライバーは広告や営業人数ではなく、プロダクト価値の向上そのものです。
新規事業責任者にとっての示唆は明確です。PLGを掲げるだけでは不十分であり、資本配分レベルでそれを徹底する必要があります。どの費用を削減し、どこに再投資するのか。その意思決定こそが、持続的なフライホイールを生み出す財務設計の本質です。
R&D比率約47%という異端の投資戦略と失敗許容の設計
Atlassianの新規事業創出を支える最大の土台は、売上高の約47%を研究開発(R&D)に投じるという異例の資本配分にあります。一般的なB2B SaaS企業がセールス・マーケティング(S&M)に30〜50%を配分するのに対し、同社はS&M比率を15〜20%程度に抑制してきました。OpenView Partnersが指摘するプロダクト主導型成長(PLG)の典型例として、製品そのものを成長エンジンに位置づけているのです。
直近数年のR&D投資額は以下の通り増加傾向にあります。
| 会計年度 | R&D投資額 | 前年比成長率 |
|---|---|---|
| 2023年 | 18.7億ドル | – |
| 2024年 | 21.8億ドル | +16.8% |
| 2025年 | 26.7億ドル | +22.2% |
Macrotrendsの財務データが示す通り、投資は一時的ではなく構造的です。ここで重要なのは、R&D比率の高さそのものよりも、それが「失敗を前提とした設計」を可能にしている点にあります。
たとえば社内インキュベーションであるPoint Aでは、探索フェーズを通過したプロジェクトの約半数が最終的に市場投入に至らない前提で運用されています。それでも制度が機能するのは、個々の失敗が財務的に致命傷にならない資本構造があるからです。これは精神論ではなく、予算設計の問題です。
さらに、R&Dへの厚い投資は単発の新機能ではなく、Teamwork Graphのような共通データ基盤やAIエージェントRovoといった長期的インフラ構築を可能にしています。短期的ROIでは測れない基盤投資を継続できる企業だけが、後続プロダクトの成功確率を引き上げられます。
加えて、S&Mを抑えたPLGモデルは、新規事業立ち上げ時に大規模な営業組織を同時構築する必要をなくします。製品改善と顧客拡大が同じR&D投資の延長線上にあるため、探索と拡張が分断されません。実験コストと拡張コストを同じ資源でまかなえる構造が、挑戦回数を増幅させます。
新規事業責任者にとっての示唆は明確です。失敗を許容する文化を掲げる前に、失敗を吸収できる財務アーキテクチャを設計できているかという問いです。Atlassianの事例は、イノベーションは意志ではなく、資本配分の帰結であることを示しています。
ShipIt:全社員参加型ハッカソンが生むボトムアップの実験文化

ShipItは、Atlassianにおけるボトムアップ型イノベーションの象徴的な取り組みです。2005年に「FedEx Day」として始まり、現在では四半期ごとに開催される24時間の全社ハッカソンへと進化しています。Work Life by Atlassianによれば、この取り組みは単なるイベントではなく、企業文化を体現するリチュアルとして位置づけられています。
最大の特徴は、**職種や役職を問わず全社員が参加できる点**にあります。エンジニアだけでなく、人事や法務、マーケティング担当者までが自由にチームを組み、通常業務から離れて課題解決や新しい価値創出に挑戦します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 開催頻度 | 四半期ごと(24時間) |
| 参加対象 | 全職種・全拠点 |
| テーマ設定 | 完全自由(業務改善・新機能・社会貢献など) |
| 評価基準 | 実装の有無とインパクト |
ShipItの原則は「Be the change you seek」です。不満を共有するだけでなく、自ら手を動かし、プロトタイプとして“出荷する”ことが求められます。この思想が、挑戦を称賛する心理的安全性を組織に根付かせています。
実際に、現在主力製品の一つであるJira Service Managementは、もともとShipItから生まれたアイデアでした。また、クラウド移行の障壁となっていたデータレジデンシー機能も、社内実験を通じて具体化されたものです。直近ではAIエージェント「Rovo」を活用した自動化プロジェクトが表彰されるなど、最新技術の実験場としても機能しています。
ここで注目すべきは、ShipItが単なるアイデア創出ではなく、**「実装」までを必須条件にしている点**です。ハーバード・ビジネス・レビューが指摘するように、イノベーション文化はアイデア量よりも試行回数に依存します。24時間という制約は、完璧主義を排し、行動を加速させる設計になっています。
もちろん24時間では市場検証まで踏み込めないケースもあります。しかし重要なのは、社員一人ひとりが「自分のアイデアが事業の種になり得る」と実感できることです。この積み重ねが、トップダウンでは生まれにくい現場起点の革新を持続的に生み出しています。
新規事業開発において学ぶべきなのは、ハッカソンを開催すること自体ではありません。**挑戦を定期的に制度化し、失敗を前提とした小さな実験を量産する構造をどう設計するか**です。ShipItは、その問いに対する一つの完成度の高い解答といえます。
Point A:70/20/10で設計された社内インキュベーション制度
Point Aは、Atlassianにおける社内インキュベーションの中核を担う仕組みです。その最大の特徴は、リソース配分を70/20/10という明確なポートフォリオ思想で設計している点にあります。
これは、既存事業の深化だけに最適化された組織から脱却し、意図的に未来への投資枠を確保するための構造改革でもあります。Atlassianの公式発信によれば、Point A導入以前は開発リソースの大半が既存製品と直近リリース案件に集中し、長期的な探索領域が相対的に不足していました。
その反省を踏まえ、現在は以下の比率で設計されています。
| 区分 | 比率 | 目的 |
|---|---|---|
| 既存事業の強化 | 70% | コア製品の改善・収益基盤の安定化 |
| 次世代プロダクト | 20% | 隣接市場への拡張・成長ドライバー創出 |
| 破壊的挑戦 | 10% | 5〜7年先を見据えた非連続イノベーション |
重要なのは、この比率が単なるスローガンではなく、実際のリソース配分に反映されている点です。売上の約47%をR&Dに投資する財務構造があるからこそ、10%の「失敗前提の挑戦枠」を制度として成立させられます。
さらにPoint Aでは、探索テーマに対して将来的に1億ドル規模へ到達する可能性があるかという明確な基準が設けられています。これは「面白いアイデア」ではなく、「戦略的に意味のある市場機会」だけを選抜するフィルターとして機能します。
また、必ずエグゼクティブスポンサーの獲得を要件とする点も重要です。これにより、ボトムアップの熱量とトップダウンの戦略整合性が接続されます。多くの企業で起こりがちな“実験は盛り上がるが事業化されない”という断絶を、構造的に防いでいます。
加えて、Point Aは段階的なゲート制を採用しています。探索段階では少人数チームで仮説検証に集中し、通過後に専任チームと予算を付与します。そしてアルファ・ベータ版を通じてアーリーアダプターと共創し、一定のトラクションが確認できなければ撤退します。
半数が失敗することを前提に設計されている点こそ、この制度の成熟度を示しています。成功率を高めるのではなく、失敗コストを管理可能にすることで挑戦総量を増やしているのです。
70/20/10という配分は、単なるバランス論ではありません。現在の収益、近未来の成長、そして遠未来の可能性を同時に扱うための経営レイヤーの設計図です。新規事業開発において重要なのは「良いアイデア」ではなく、「アイデアが生まれ、選抜され、育成される構造」を持てるかどうかにあります。
Jira Product Discovery・Compass・Atlasに見る事業化の実例
Jira Product Discovery、Compass、Atlasはいずれも、社内インキュベーションプログラム「Point A」から生まれた製品です。単なる新機能追加ではなく、Atlassianの「System of Work」を横に拡張する戦略的な一手として設計されています。
共通しているのは、既存のJiraやConfluenceが強みとする「実行管理」の前後にある未充足領域へ踏み込んだ点です。つまり、開発現場の周辺に広がる意思決定・構造管理・進捗共有という“空白地帯”を事業化した事例といえます。
| プロダクト | 対象課題 | 戦略的意義 |
|---|---|---|
| Jira Product Discovery | アイデア管理と優先順位付け | 「作る前」の領域を取り込みPMを囲い込む |
| Compass | マイクロサービスの可視化 | アーキテクチャ管理という新市場の創出 |
| Atlas | チーム横断の状況共有 | 定性的進捗の標準化による組織連携強化 |
Jira Product Discoveryは、プロダクトマネージャーがスプレッドシートで行っていた評価・優先順位付け業務をJiraエコシステム内に統合しました。2025年の株主向けレターによれば、すでに20,000社以上の顧客を獲得しています。「開発前の意思決定」を押さえたことで、Jira本体への接続確率を高める構造を作った点が本質です。
Compassは、マイクロサービス化が進む中で複雑化したシステム構成をカタログ化し、健全性スコアカードを提供します。コード管理とプロジェクト管理の間に存在していたアーキテクチャ管理の空白を埋めることで、エンジニアリングリーダー層という新たな意思決定者を取り込みました。
Atlasは、タスクの進捗ではなく「状況」や「リスク」を共有する軽量ツールです。Confluenceよりも簡潔で、Jiraよりも定性的な報告に特化しています。部門横断の透明性を高めることで、組織全体の意思決定スピードを上げる役割を担います。
これら3製品に共通するのは、いずれも単体で完結しない設計です。JiraやConfluenceとの接続を前提に設計され、クロスセルを自然発生させます。Point Aでは「将来1億ドル規模になるか」という基準が設けられていますが、その裏にはエコシステム全体への波及効果という視点があります。
新規事業開発の観点で学ぶべきは、既存資産の延長線上に小さな隙間を見つけ、そこを独立した事業として成立させる構造設計です。Jira Product Discovery、Compass、Atlasは、周辺領域を戦略的に押さえることでプラットフォーム価値を高めた実例といえます。
戦略的M&Aの本質──“コンテキストレイヤー”を押さえる買収哲学
戦略的M&Aの本質は、売上や顧客基盤の獲得ではなく、「仕事が生まれる文脈=コンテキストレイヤー」を押さえることにあります。Atlassianは20年以上で20社超を買収してきましたが、その総額規模以上に注目すべきは、どのレイヤーの文脈を獲得したのかという視点です。
プロダクトが利用される瞬間には、必ず前後の行動や意思決定の流れがあります。その流れを分断されたままにせず、自社のプラットフォームへ接続していくことが、同社の買収哲学です。
| 買収先 | 獲得した文脈 | 戦略的意味 |
|---|---|---|
| Trello | ライトな業務管理 | 非エンジニア層への拡張 |
| Opsgenie | インシデント対応 | DevとOpsの接続強化 |
| Loom | 非同期動画 | 非構造化情報の取得 |
| The Browser Company | ブラウザ行動履歴 | Web全体の作業文脈 |
例えばLoomの買収は、単なる動画ツールの拡充ではありません。動画内の発言や画面操作には「なぜその決定をしたのか」という暗黙知が含まれます。同社ブログによれば、動画からタイトルや要約、タスクを自動生成し、JiraやConfluenceへ接続できる設計が進んでいます。これは、非構造化データをTeamwork Graphへ取り込み、AIの精度を高めるための布石です。
またOpsgenieは、障害発生という“緊急時の文脈”を掌握する一手でした。平時のタスク管理だけでなく、有事の意思決定フローまで自社エコシステムに統合することで、Jira Service Managementの競争力を飛躍的に高めています。
さらにThe Browser Companyの買収は、アプリ単位ではなくブラウザという入口を押さえる戦略です。Web上の検索、閲覧、編集といった行動履歴は、あらゆる業務の起点になります。このレイヤーを獲得することで、アプリ間を横断する包括的な文脈把握が可能になります。
新規事業責任者にとっての示唆は明確です。M&Aを検討する際は、売上規模や技術力だけでなく、「その企業はどの文脈を握っているのか」「自社のデータ基盤と接続したとき、どんな新しい意思決定体験が生まれるのか」を問い直す必要があります。
コンテキストを制する企業が、AI時代の競争優位を制します。戦略的M&Aとは、未来の学習データを先回りして取得する行為にほかなりません。
LoomとBrowser Company買収が示すAI時代のデータ戦略
LoomとThe Browser Companyの買収は、単なるプロダクト拡張ではありません。AI時代における競争優位の源泉が「モデル」ではなく独自データとその構造化能力にあるという明確なメッセージです。
Atlassianは従来、JiraやConfluenceを通じてテキスト中心の業務データを蓄積してきました。しかし意思決定の背景やニュアンス、暗黙知の多くは、テキスト化されないまま消えていきます。
Loomとブラウザという新たな接点は、その「こぼれ落ちる文脈」を回収するための戦略的布石と位置づけられます。
| 買収先 | 取得したデータ特性 | AI戦略上の意味 |
|---|---|---|
| Loom | 音声・映像・画面操作という非構造化データ | 意思決定プロセスの背景理解と自動構造化 |
| The Browser Company | Web上の閲覧・作業履歴という行動データ | アプリ横断の業務コンテキスト統合 |
Loomは動画からタイトルや要約、タスクを自動生成し、JiraやConfluenceに接続します。これにより、会議や説明動画に含まれる非構造化情報が、Teamwork Graphのノードとして組み込まれます。Atlassianの発表によれば、こうした統合はARR1億ドル超の事業規模を維持しながら拡張しています。
重要なのは、動画そのものではなく動画を構造化し、他データと関係づける能力です。AIは大量データよりも「関係性の明確なデータ」から高い価値を生みます。
一方、The Browser Companyの買収はさらに踏み込んでいます。ブラウザはあらゆるSaaSの入口であり、ユーザーの思考プロセスに最も近いレイヤーです。
ブラウザを通じて取得できるのは、最終成果物ではなく「調査・比較・検討」という前段階の行動履歴です。これは従来のSaaSでは取得できなかった極めて価値の高いコンテキストです。
Teamwork Graphはすでに1000億以上のオブジェクトと関係性を保持するとされますが、そこに動画とブラウザ行動が加わることで、企業固有の知識ネットワークは一段と立体化します。
新規事業開発の視点で重要なのは、プロダクト機能よりもどのデータレイヤーを押さえるのかという設計思想です。AIを後付けするのではなく、将来AIが活用可能なデータ構造を最初から組み込むことが不可欠です。
LoomとBrowserの買収は、「AI機能を強化するためのM&A」ではありません。AI時代において最も希少な資源であるコンテキストデータを戦略的に獲得する、データ主権の確立そのものなのです。
Teamwork GraphとRovo:仕事の文脈を資産化するAI基盤
AtlassianがAI時代の中核基盤として位置づけているのが、Atlassian Teamwork GraphとRovoです。これは単なる新機能ではなく、組織内に散在する「仕事の文脈」を構造化し、再利用可能な資産へと転換するための基盤です。
従来、企業内の知識はJiraのチケット、Confluenceのドキュメント、Loomの動画、さらには外部SaaSに分断されていました。Teamwork Graphはそれらを統合し、「人・仕事・知識」の関係性をグラフ構造で保持します。
重要なのは、データそのものではなく「関係性」を保存している点です。誰が作成し、誰が承認し、どのチケットがどの動画や仕様書と結びついているのか。この接続情報こそがAIの精度を決定づけます。
Atlassianの公式発表によれば、Teamwork Graphは1000億以上のオブジェクトと関係性を保持しています。この規模の企業固有データを背景に、Rovoは汎用AIとは異なる回答を生成します。
例えば、単に「この不具合の原因は?」と問うのではなく、「過去に類似バグを修正した担当者」「関連する設計ドキュメント」「直近のLoom説明動画」まで横断的に提示できます。これは企業固有のコンテキストを理解しているからこそ可能になります。
| 観点 | 一般的なAI | Teamwork Graph+Rovo |
|---|---|---|
| 学習基盤 | 公開情報・汎用モデル | 自社内の業務データと関係性 |
| 回答の特性 | 一般論中心 | 企業固有の文脈に即した提案 |
| 活用範囲 | 個人作業支援 | 組織横断の意思決定支援 |
Rovoはこのグラフを基盤に、自律的に探索・提案を行うエージェントとして設計されています。検索機能ではGoogle DriveやSharePointなど外部SaaSも横断し、最も関連性の高い情報を提示します。
さらに、Rovo Devのような開発者向けエージェントは、コード・仕様書・チケットの関係性を理解した上で支援を行います。オンボーディング支援エージェントNORAの事例が示すように、AIは単なる質問応答を超え、業務プロセスの実行主体へと拡張されています。
株主向けレターでは、AIコード生成機能を利用する顧客がJiraの有償シート数を約5%多く拡大させていることも示されています。AI基盤はコストではなく、ARPU向上に直結する成長ドライバーとして機能しているのです。
新規事業開発の観点で見れば示唆は明確です。単発のAI機能を作るのではなく、自社特有の業務データをどう構造化し、関係性まで含めて蓄積するか。その設計こそが、持続的競争優位を生むAI基盤を形づくります。
Teamwork GraphとRovoは、仕事の履歴を検索可能な記録から、意思決定を加速する戦略資産へと昇華させる仕組みなのです。
MarketplaceとAtlassian Venturesが拡張するエコシステム経営
Atlassianのエコシステム経営を象徴するのが、MarketplaceとAtlassian Venturesの二層構造です。自社プロダクトの拡張を外部に開放し、その成長を資本とネットワークで後押しすることで、単一企業の枠を超えた価値創出モデルを構築しています。
Marketplaceは、JiraやConfluenceに連携するアプリをサードパーティが開発・販売できる公式プラットフォームです。公表情報によれば、その累計売上は20億ドルを超えており、独立した経済圏として成立しています。
Marketplaceの役割は単なる機能補完ではありません。特定業界向けワークフロー、高度なテスト管理、ガントチャートなど、ニッチで専門的なニーズを満たすロングテール領域を担っています。
これによりAtlassian本体は共通基盤やデータモデル、AIといったコア領域に集中でき、周辺機能はパートナーが高速に進化させる分業体制が生まれます。フライホイール型モデルを解説する同社ブログでも、パートナーエコシステムが成長を加速させる要因であると示されています。
| 領域 | 主な担い手 | 戦略的意義 |
|---|---|---|
| コアプラットフォーム | Atlassian本体 | 共通基盤・データ・AIへの集中投資 |
| 拡張機能・業界特化 | Marketplaceパートナー | ロングテール需要の獲得 |
| 資本・成長支援 | Atlassian Ventures | 有望企業の囲い込みと関係強化 |
さらに特筆すべきはAtlassian Venturesの存在です。同部門はMarketplace上でプロダクトを展開するスタートアップや、Atlassian製品と深く統合する成長企業に投資しています。公式発表によれば、Convertible Noteの条件を公開するなど、透明性の高い投資姿勢を打ち出しています。
これは単なる財務リターン目的のCVCではありません。投資先は資金だけでなく、技術メンタリングやMarketplaceでの露出拡大といった支援を受けます。その結果、エコシステム全体のプロダクト品質と連携度が高まり、顧客価値が増幅されます。
新規事業開発の視点で重要なのは、自社のプロダクトを“完成品”として閉じるのではなく、“拡張可能な基盤”として設計することです。MarketplaceはAPIと開発基盤の開放、Venturesは資本と信頼関係の構築という役割を担い、両者が循環することで持続的なイノベーションが生まれています。
エコシステムを持つ企業は、プロダクト数以上の事業機会を獲得します。Atlassianの事例は、プラットフォーム設計と投資戦略を統合することで、新規事業の成功確率を構造的に引き上げられることを示しています。
日本企業の変革事例:メルカリ・LIXIL・LINEヤフーの実践
日本企業における変革の現場では、単なるツール導入ではなく、組織構造や意思決定プロセスそのものを再設計する動きが進んでいます。メルカリ、LIXIL、LINEヤフーの実践は、その象徴的な事例です。
いずれの企業も共通しているのは、情報の分断を解消し、透明性を高めることで、変化に強い組織へと進化している点です。
主要3社の変革アプローチ
| 企業名 | 変革テーマ | 特徴的な取り組み |
|---|---|---|
| メルカリ | グローバル開発基盤の統一 | Jira・Confluenceの統合とQAプロセス高度化 |
| LIXIL | アジャイル型経営への転換 | トップ主導の業務プロセス刷新 |
| LINEヤフー | 大規模組織の知識共有 | 1万人規模の社内Wiki活用 |
メルカリは、日本と米国にまたがる開発体制の中で、プロセスの不統一という課題に直面しました。同社エンジニアリングブログによれば、JiraとConfluenceのインスタンス統合を通じて、国境を越えた共通ワークフローを構築しています。さらにQA分析にもJiraを活用し、品質保証を「属人化した作業」から「データドリブンな工程」へ進化させました。AIコードエディタCursorのミートアップを主催するなど、生成AIと既存開発基盤の接続にも積極的です。
LIXILの変革はより構造的です。瀬戸CEOのリーダーシップのもと、ウォーターフォール型の慣習から脱却し、アジャイル型の働き方へと転換しました。Jira Service Managementを活用した問い合わせ管理や、Confluenceによる部門横断のナレッジ共有は、その象徴的な施策です。重要なのは、これを「IT導入」ではなく「企業風土の改革」として位置づけた点です。
LINEヤフーでは、1万人規模でConfluenceを社内Wikiとして活用し、暗黙知の形式知化を徹底しています。アトラシアンの国内事例紹介でも取り上げられている通り、情報のオープン化は意思決定の迅速化に直結します。大企業にありがちな「情報探索コスト」を削減することが、新規事業の立ち上げ速度を左右します。
新規事業開発においては、不確実性の中で迅速に仮説検証を回す必要があります。そのためには、部署や国境を越えて知識が循環する基盤が不可欠です。メルカリ、LIXIL、LINEヤフーの事例は、日本企業でも世界水準のコラボレーション基盤を構築できることを示しています。
新規事業責任者への戦略的示唆:構造でイノベーションを設計する方法
新規事業を成功させる責任者に求められるのは、優れたアイデアそのものよりも、アイデアが継続的に生まれ、選抜され、事業化される「構造」を設計する力です。Atlassianの事例は、イノベーションを偶発性から解放し、再現可能なプロセスへ昇華させる設計思想を示しています。
同社の特徴は、文化・選抜・投資・基盤を分断せず、一気通貫で接続している点にあります。
| 構造レイヤー | 役割 | 経営上の意味 |
|---|---|---|
| 文化(ShipIt) | 全社員参加の実験機会 | 探索量の最大化 |
| 選抜(Point A) | 1億ドル規模の潜在性評価 | 戦略との整合 |
| 財務(R&D重視) | 売上の約47%を研究開発へ投資 | 失敗許容の担保 |
| 基盤(Teamwork Graph) | 1000億超の関係データ | AI競争優位の確立 |
たとえばPoint Aでは、探索段階でエグゼクティブスポンサーの獲得を必須とし、将来的に1億ドル規模へ成長する可能性があるかを厳格に問います。Work Life by Atlassianによれば、このフェーズ通過後でも相当数が失敗する前提で設計されています。
重要なのは、「失敗しない仕組み」ではなく「失敗しても回り続ける仕組み」を構築していることです。その背景には、S&M比率を抑えR&Dへ厚く配分する財務構造があります。資源配分そのものが、戦略の実装装置になっています。
さらに見逃せないのが、データ基盤を前提に新規事業を設計している点です。Teamwork Graphは人・仕事・知識の関係性を横断的に保持し、RovoのようなAIエージェントが企業固有の文脈を理解する土台になっています。新規事業が生むデータは、次の事業の競争優位へと転化されます。
新規事業責任者への示唆は明確です。第一に、実験機会を制度として埋め込むこと。第二に、戦略的整合と市場規模を問う明確なゲートを設けること。第三に、財務構造で挑戦を支えること。第四に、事業が蓄積するデータを将来の武器として設計段階から織り込むことです。
イノベーションは才能の産物ではなく、構造の帰結です。構造を設計できるかどうかが、持続的な成長を分けます。
参考文献
- OpenView Partners:A New Way To Tell if a Company Is Truly Product-Led
- Macrotrends:Atlassian Research and Development Expenses 2014-2025 | TEAM
- Atlassian:From Ideas to Impact: The Story of ShipIt
- Atlassian:Point A by Atlassian: Where good ideas become amazing products
- Atlassian:Our Q1 FY26 letter to shareholders
- The Economic Times:Atlassian acquires The Browser Company for $610 million
- Atlassian:Atlassian Ventures Home
