新規事業に挑戦せよ、と会社は言う。けれど評価されるのは既存事業での確実な成果。そんな矛盾を感じたことはありませんか。多くの日本企業で新規事業がPoC止まりに終わる背景には、個人の能力や情熱ではなく、評価制度そのものが抱える構造的な問題があります。
短期成果や減点主義に最適化された評価のもとでは、不確実性の高い挑戦ほど合理的に避けられてしまいます。その結果、挑戦しない人ほど評価され、挑戦した人ほどキャリアリスクを負うという逆転現象が起きています。これは新規事業担当者の怠慢ではなく、制度が生み出す必然です。
本記事では、イノベーションのジレンマを人事評価の視点から捉え直し、全社制度を変えずとも現場で実装できる「評価制度ハック」を解説します。国内外の具体事例やデータを交えながら、挑戦が報われる組織をどう設計するのかを明らかにします。
なぜ日本企業の新規事業は評価制度で止まるのか
日本企業の新規事業が評価制度で止まってしまう最大の理由は、既存事業向けに最適化された評価の物差しを、新規事業にもそのまま当てはめている点にあります。
多くの企業では、売上高や利益率、ミスの少なさといった指標が評価の中心です。これらは既存事業では合理的ですが、不確実性が極めて高い新規事業に適用すると、挑戦そのものが不利な行動になってしまいます。
ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が提唱したイノベーションのジレンマによれば、優良企業ほど合理的な判断を積み重ねる結果、破壊的イノベーションを逃すとされています。
| 評価の観点 | 既存事業 | 新規事業 |
|---|---|---|
| 時間軸 | 短期(四半期・単年度) | 中長期(3〜5年以上) |
| 主な指標 | 売上・利益・効率 | 学習量・仮説検証 |
| 失敗の扱い | 減点対象 | 学習資産 |
このギャップを無視した評価制度のもとでは、短期成果が出ない新規事業は「成果なし」「能力不足」と判定されやすくなります。
結果として、担当者は無意識のうちにキャリア防衛を優先し、検証よりも資料作成や根回しに時間を割くようになります。
評価制度は行動を規定する強力なメッセージであり、「何をすれば報われるか」を明確に示します。
- 短期的な数字を守る行動は評価される
- 不確実な挑戦は評価リスクが高い
- 失敗は将来にわたる減点要因になる
こうしたメッセージが積み重なることで、新規事業は合理的に避けるべき仕事として組織に認識されていきます。
コダックがデジタルカメラ技術を持ちながら事業転換できなかった背景にも、フィルム事業の利益を守ったマネージャーが評価される構造がありました。
ノキアも同様に、既存のフィーチャーフォン事業の成功モデルを守ることが評価上の正解であり続けた結果、スマートフォンへの転換が遅れました。
これらの企業の失敗は、技術力や市場理解の欠如ではなく、評価制度が個人の合理的判断を通じて組織全体の非合理を生み出した点に本質があります。
特に日本企業では、メンバーシップ型雇用と減点主義がこの問題をさらに深刻にします。
一度の失敗が長期的なキャリアに影響する環境では、「挑戦しないこと」が最も安全な選択肢になります。
つまり、日本企業の新規事業が評価制度で止まるのは、担当者の意欲や能力の問題ではありません。
評価制度そのものが、新規事業にブレーキをかける構造になっていることこそが、最大のボトルネックなのです。
イノベーションのジレンマを人事評価から読み解く

イノベーションのジレンマは、技術や戦略の問題として語られることが多いですが、実務の現場では人事評価が行動を縛る力学として強く作用しています。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授によれば、優良企業ほど合理的な意思決定を積み重ねた結果、破壊的イノベーションを排除してしまうとされています。この「合理性」を社員レベルで具体化しているのが評価制度です。
既存事業に最適化された評価制度では、短期的な売上や利益、業務の正確性が重視されます。これらは測定しやすく、説明責任も果たしやすいため、管理上は極めて優秀な指標です。一方で新規事業は、初期段階では市場規模が小さく、失敗や方向転換が前提となります。その結果、同じ評価軸で裁かれると、挑戦する人材ほど評価を落とすという逆転現象が起きます。
評価制度は社員にとって「何をすればキャリアが守られるか」を示すシグナルであり、新規事業に不利な設計は挑戦を抑制する強力なメッセージになります。
この構造を理解するために、既存事業と新規事業の評価軸を整理すると違いが鮮明になります。
| 観点 | 既存事業 | 新規事業 |
|---|---|---|
| 時間軸 | 短期(四半期・単年度) | 中長期(数年単位) |
| 重視指標 | 売上・利益・効率 | 学習量・仮説検証・将来価値 |
| 失敗の扱い | 減点・責任追及 | 学習資産・前進の証拠 |
コダックやノキアの事例は、この評価の力学を象徴しています。両社とも技術的な知見は持っていましたが、評価されるのは既存事業の利益を守るマネージャーでした。短期業績を下げかねない新技術への投資は、合理的に見れば「評価を下げる行為」だったのです。社員一人ひとりが自らのキャリアを守るために最適行動を取った結果、組織全体として変化に適応できなくなりました。
日本企業では、この問題がさらに深刻化しやすいと指摘されています。メンバーシップ型雇用と減点主義の評価文化では、一度の失敗が長期的なキャリアリスクになります。協調性や前例踏襲が評価される環境では、異質なアイデアや未検証の挑戦は「空気を乱す行為」と受け取られがちです。
- 短期成果が出ない挑戦は無能と見なされやすい
- 失敗経験が評価履歴として残りやすい
その結果、イノベーションのジレンマは経営層の問題ではなく、評価制度を通じて現場に内面化されます。社員が挑戦しないのではなく、挑戦しない方が合理的になる構造が存在しているのです。新規事業を成功させる第一歩は、個人の意識改革ではなく、評価というレンズを通じてこのジレンマを正確に読み解くことにあります。
コダックとノキアに学ぶ評価制度の落とし穴
コダックとノキアの失敗は、技術判断の誤りとして語られがちですが、本質は評価制度が生んだ行動の歪みにあります。両社とも当時の市場や技術動向を把握していなかったわけではなく、むしろ内部には正しい危機感と代替案が存在していました。それでも組織として動けなかった理由は、評価される行動と、将来に必要な行動が一致していなかった点にあります。
コダックは1970年代に世界初のデジタルカメラを開発しています。にもかかわらず商用化に踏み切れなかった背景には、フィルム事業の高い利益率を守ることが、管理職の評価と昇進に直結していた事実があります。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授の研究でも、コダックでは短期的な利益貢献が最重要指標であり、デジタル事業への資源配分は合理的でないと判断されやすかったと指摘されています。
デジタルカメラは初期段階では画質も悪く、利益率も低く、フィルム市場を侵食する存在でした。そのため、挑戦すればするほど短期業績を悪化させ、評価を下げるリスクを伴っていたのです。結果として、技術は存在しても、評価制度がそれを封印してしまいました。
ノキアも同様の構造を抱えていました。2000年代半ばまで、ノキアは携帯電話市場で圧倒的なシェアと利益を誇っていました。評価軸は、既存のフィーチャーフォン事業でいかにシェアと収益を守るかに置かれ、安定性と効率性が高く評価されていました。スマートフォン向けOSやタッチUIへの本格投資は、既存モデルの否定につながり、組織内で評価上の不利を招きやすい選択だったのです。
| 企業 | 評価されていた行動 | 結果として抑制された行動 |
|---|---|---|
| コダック | フィルム事業の利益率維持 | 低収益なデジタル事業への投資 |
| ノキア | 既存携帯事業の安定運営 | スマートフォンへの大胆な転換 |
重要なのは、これらの判断が当時の評価基準に照らせば極めて合理的だった点です。短期業績、既存顧客満足、失敗回避という指標で測れば、破壊的イノベーションへの投資は「無謀」に映ります。評価制度は単なる人事ツールではなく、組織にとっての意思決定のOSとして機能し、社員の思考と行動を無意識に縛っていきます。
クリステンセン教授が指摘するように、優良企業ほど既存事業に最適化された評価指標を精緻化し、その結果として未来の選択肢を自ら狭めてしまいます。コダックとノキアの教訓は、危機に気づけなかったことではなく、気づいていても動けない評価構造を放置したことにあります。
新規事業開発において最大のリスクは失敗そのものではなく、挑戦しないことが高く評価されてしまう制度設計です。この落とし穴を理解しない限り、どれほど優秀な人材や技術を持っていても、組織は同じ轍を踏み続けます。
日本型雇用が新規事業に与える影響

日本型雇用が新規事業開発に与える影響は、単なる人事制度の問題ではなく、挑戦そのもののインセンティブ構造に深く関わっています。とくにメンバーシップ型雇用、年功序列、終身雇用を前提とした評価慣行は、新規事業に固有の不確実性と本質的な緊張関係を生み出します。
- 職務が曖昧なため、成果責任の所在が不明確になりやすい
- 失敗が個人の評価に長期的に影響する
- 異動・ローテーションにより知見が蓄積しにくい
メンバーシップ型雇用では「人」に紐づいて評価が行われるため、新規事業のように成果が中長期に現れる活動は、短期評価とのミスマッチが生じます。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が指摘したイノベーションのジレンマは、日本企業においては人事評価を通じて個人のキャリア判断に内面化されている点が特徴です。
| 観点 | 日本型雇用 | 新規事業への影響 |
|---|---|---|
| 評価軸 | 協調性・減点主義 | 挑戦行動が抑制されやすい |
| 雇用前提 | 長期雇用 | 一度の失敗が致命傷になりやすい |
| 人材配置 | 定期ローテーション | 事業知の蓄積が進まない |
とくに新規事業担当者にとって深刻なのは、合理的に振る舞うほど挑戦しない選択が最適解になる点です。既存事業では減点を避け、波風を立てない行動が評価されやすいため、不確実性の高いテーマに自ら手を挙げる行為は、キャリア上のリスクとして認識されがちです。
実際、経済産業省の人材関連研究でも、日本企業では失敗経験がポジティブに評価されにくく、学習よりも結果責任が強調されやすい傾向が指摘されています。この構造下では、PoC止まりの新規事業が量産され、スケール段階に進む前に人も情熱も失われていきます。
さらに、年次や在籍年数に基づく暗黙の序列は、若手や異分野人材が主導する新規事業にブレーキをかけます。上司より若い事業責任者、社外知見を持つ人材の抜擢といった判断が難しくなり、結果として意思決定のスピードと質が低下します。
このように、日本型雇用は既存事業の安定運営には適合してきましたが、新規事業においては「挑戦しないことが最適化される構造」を内包しています。この影響を正しく理解することが、新規事業開発を前進させるための第一歩になります。
両利きの経営を実装する評価の二重基準
- 既存事業と新規事業では評価すべき成果の性質が根本的に異なります
- 単一基準のままでは合理的な人ほど挑戦しなくなります
両利きの経営を実装する上で最大の難所は、戦略や組織図ではなく評価制度にあります。既存事業の評価基準を新規事業にそのまま当てはめること自体が、イノベーションを阻害する構造的なバイアスになるからです。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が指摘したイノベーションのジレンマは、評価の文脈で見ると「合理的に評価されたい人ほど破壊的挑戦を避ける」状態を生み出します。
既存事業は売上高や利益率、効率性といった短期かつ定量的な指標で管理できます。一方、新規事業は不確実性が高く、初期段階では市場規模も小さく赤字が前提です。にもかかわらず同じPL基準で評価すると、挑戦は減点要因になり、学習は成果として認識されません。ここに評価の二重基準を意図的に設けることが、両利きの経営の実装条件になります。
| 評価軸 | 既存事業 | 新規事業 |
|---|---|---|
| 時間軸 | 四半期・単年度 | 3〜5年以上 |
| 主要指標 | 売上・利益・効率 | 学習量・検証進捗 |
| 失敗の扱い | 減点・是正対象 | 学習資産として加点 |
この二重基準を制度として実装した代表例がIBMです。1990年代のIBMは「Emerging Business Opportunities」という枠組みで新規事業を既存事業から切り離し、短期利益ではなくマイルストーン達成度や市場理解の深さを評価しました。ルイス・ガースナー元CEOは、新規事業を既存の論理で裁けば必ず潰れると認識し、評価経済圏そのものを分離したのです。
重要なのは、二重基準は甘やかしではない点です。新規事業側にも厳格な基準は存在しますが、それは売上ではなく仮説検証の質や意思決定の妥当性です。例えば、顧客インタビューを通じて前提を覆したピボットや、検証結果に基づく撤退判断は、成果がゼロでも高く評価されるべき行動です。経済産業省の研究会資料でも、不確実性下では行動量と学習速度を評価する必要性が示されています。
逆に二重基準がない組織では、評価の合理性が現場を縛ります。コダックやノキアの事例が示す通り、社員は評価される行動を最適化しただけであり、非合理だったのは制度の側でした。評価制度は行動を選別するメッセージであり、新規事業を既存基準で測る限り「挑戦しないこと」が最適解になります。
両利きの経営とは、組織に二つの正解を同時に許容することです。その核心が評価の二重基準であり、これを明文化し運用できるかどうかが、新規事業がPoC止まりで終わるか、事業として育つかの分岐点になります。
出島戦略とカニバリゼーションを促す評価設計
出島戦略とは、新規事業を既存組織の評価・意思決定ロジックから意図的に切り離し、独立したルールで育成する考え方です。重要なのは、組織構造を分けること自体ではなく、評価設計まで含めて切り離す点にあります。**評価が既存事業と共通のままであれば、出島は名ばかりとなり、免疫反応から逃れられません**。
ハーバード・ビジネス・スクールのクリステンセン教授が指摘した通り、破壊的イノベーションは初期段階で売上規模が小さく、利益率も低くなります。これを既存事業と同じPL指標で評価すれば、合理的に「失格」になります。出島に必要なのは、短期成果ではなく学習と前進を測る評価軸です。
| 評価観点 | 既存事業 | 出島の新規事業 |
|---|---|---|
| 時間軸 | 四半期・単年度 | 中長期のJカーブ |
| 主要指標 | 売上・利益率 | 仮説検証数・学習量 |
| 失敗の扱い | 減点・責任追及 | 前進条件付きで加点 |
もう一つの核心が、カニバリゼーションを意図的に促す評価設計です。多くの企業では、自部門の売上を侵食する新規事業は敵と見なされます。しかし、アップルがiPodを自らiPhoneで置き換えた事実が示すように、**自己破壊を選べる企業だけが次の成長曲線に移行できます**。
ここで鍵となるのが、既存事業側の評価です。既存事業責任者のKPIに、新規事業への人材供出や連携実績を組み込むことで、抵抗は協力へと変わります。これは理想論ではなく、IBMがEBOで実践したように、評価指標を変えることで行動が変わるという組織行動論に基づいた設計です。
- 新規事業への人材・アセット提供を加点評価にする
- 短期利益の一部減少を評価上で中立化する
ソニーのSSAPでは、既存組織の稟議や人事評価をバイパスできる特区として運営され、ステージごとのマイルストーン達成が評価基準となっています。これにより、既存事業を侵食する可能性のあるテーマでも、政治的な調整より検証が優先されます。
重要なのは、カニバリゼーションを「仕方ない副作用」ではなく、「組織進化の証拠」と再定義することです。そのメッセージを最も強く伝える手段が評価制度です。**評価に書かれていない行動は、どれほど経営が叫んでも組織では起きません**。
出島戦略とカニバリゼーションを本気で機能させるには、「壊した人が損をしない」評価設計が不可欠です。自己破壊を選んだ人材が次の挑戦機会やキャリア上の信用を得られると示した瞬間、組織は防衛から探索へと重心を移します。
イノベーション人材をどう定義し、どう評価するか
イノベーション人材を定義し評価する際に最も重要なのは、既存事業で優秀とされてきた人材像と、意図的に切り分けて考えることです。多くの企業では「成果を出す人=イノベーション人材」と短絡的に捉えがちですが、新規事業の初期段階では成果そのものが不確実であり、成果基準で評価すると挑戦的な人材ほど排除されてしまいます。
経済産業省の人材関連ガイドラインや民間調査によれば、イノベーションを担う人材は一枚岩ではなく、役割によって明確にタイプが分かれると整理されています。特に実務で有効なのが、「ゼロ・イチを生む人材」と「事業を拡大する人材」を分けて定義する考え方です。
| 人材タイプ | 主な役割 | 評価で重視すべき観点 |
|---|---|---|
| ゼロ・イチ人材 | 課題設定・アイデア創出 | 独創性、仮説の質、試行回数 |
| 事業成長人材 | 検証・拡大・組織化 | 実行力、学習速度、再現性 |
ゼロ・イチ人材は、周囲と異なる視点を持ち、既存の前提を疑うことに価値があります。そのため、協調性や根回し力を一律に求める評価軸とは相性が悪く、評価の中心は「どれだけ新しい問いを立て、どれだけ検証したか」に置く必要があります。一方で、事業成長人材は既存組織との接続や計数管理が強みであり、拡大フェーズで真価を発揮します。
次に重要なのが、個人の能力をどう測るかです。従来の人事評価が「与えられた業務を正確に遂行できたか」を問うのに対し、イノベーション人材の評価では質的な行動指標が求められます。研究や実務で共通して重視されているのは、次の三点です。
- 現象の背後にある構造を捉える分析力
- 権限に頼らず人を動かすビジョン提示力
- 顧客や社会課題への強い当事者意識
これらは短期的な売上や利益では測定できません。そのため評価面談では、「なぜその仮説に至ったのか」「どんな学びを次にどう活かすのか」といった問いを通じて、思考と学習の深さを確認することが有効です。ハーバード・ビジネス・スクールの研究でも、不確実性の高い環境では成果よりも学習指標を評価したチームの方が、長期的な成功確率が高いことが示されています。
実際、リクルートの新規事業制度では、事業化に至らなくても挑戦プロセスそのものが人事評価に反映され、昇進や配置に影響を与えています。これにより、新規事業への挑戦がキャリア上のリスクではなく、成長の証明として機能しています。
イノベーション人材をどう定義し、どう評価するかは、単なる人事技術の話ではありません。「どんな行動を取る人を、組織として守り、報いるのか」という明確なメッセージであり、その一貫性こそが新規事業の成否を左右します。
心理的安全性を評価指標に組み込む方法
新規事業開発において心理的安全性を重視すべきだという認識は広がっていますが、実務で難しいのは、それを評価指標としてどう定義し、どう運用するかです。単なるスローガンに終わらせず、評価制度に組み込むには、心理的安全性を「測定可能な行動と状態」に分解する必要があります。
心理的安全性の研究で知られるハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソン教授によれば、心理的安全性とは「対人関係上のリスクを取っても罰せられないという共有された信念」です。重要なのは、個人の性格ではなく、チームやマネジメントの設計によって左右される点です。つまり評価の対象は、個人の気分ではなく、マネージャーや組織の振る舞いになります。
評価指標に落とし込む第一歩は、成果ではなく行動と環境条件を評価することです。例えば「失敗しなかった」ことを評価するのではなく、「失敗が共有され、次の仮説に活かされたか」を見る設計に切り替えます。
| 評価対象 | 従来の評価 | 心理的安全性を組み込んだ評価 |
|---|---|---|
| マネージャー | 進捗管理・統制 | 挑戦を促した回数、意見を引き出した行動 |
| チーム | 目標達成率 | 仮説検証数、学習の共有頻度 |
| 個人 | ミスの少なさ | 提案数、異論を述べた回数 |
実際、国内で若手社員1,700人超を対象に行われた調査では、心理的安全性が高い職場ほど主体的行動が顕著に増えることが示されています。安心して発言できる環境では、自ら課題を見つけ動く社員が過半数に達する一方、心理的安全性が低い環境では約8割が受け身に留まっていました。この差は能力ではなく、評価と環境の差によって生まれています。
特に重要なのが、マネージャー評価への組み込みです。新規事業では、部下の失敗をそのまま上司の減点とすると、現場は必ず挑戦を避けます。そこで、マネージャーのKPIを「管理」ではなく「支援」に置き換えます。
- メンバーが提案したアイデア数や実験数
- 定期的な1on1実施率と対話の質
- 心理的安全性サーベイのスコア推移
これらを評価項目に含めることで、マネージャーは「失敗を防ぐ人」ではなく、「挑戦を成立させる人」として評価されるようになります。DX推進やイノベーション支援の文脈でも、現場責任者の評価軸を変えない限り挑戦は起きないと指摘されています。
心理的安全性は性善説ではなく、評価制度というハードな仕組みで守られて初めて機能します。
さらに見落とされがちなのが、マネージャー自身の心理的安全性です。経営層から「部下に挑戦させた結果の失敗で、あなたの評価は下げない」と明確に保証されなければ、評価指標は形骸化します。心理的安全性はトップダウンで連鎖するものであり、評価制度はそのメッセージを最も強く伝える装置です。
心理的安全性を評価に組み込むとは、優しさを数値化することではありません。不確実性の高い挑戦を合理的に選べる状態を、制度として設計することです。新規事業の成否を分けるのは、才能や努力以上に、「挑戦しても評価が壊れない」という確信を、組織が与えられているかどうかなのです。
撤退を成功に変えるための評価ルール
新規事業において撤退は失敗ではなく、設計次第で次の成功確率を高める戦略的な成果になります。その鍵となるのが、撤退をどう評価するかというルールです。多くの企業では撤退が個人の能力不足や責任問題として扱われがちですが、これは挑戦を萎縮させ、サンクコストバイアスを強める典型的な悪手です。
**撤退を成功に変える第一歩は、評価の対象を「結果」から「判断プロセス」に移すことです。** ハーバード・ビジネス・スクールの研究でも、不確実性の高い環境では成果より意思決定の質を評価する方が、長期的なパフォーマンスが高まると示されています。新規事業では売上未達そのものではなく、どの仮説がどのデータによって否定されたのかを明確に説明できることが重要です。
具体的には、撤退判断を加点対象とする明確な条件を事前に定義します。例えば、一定期間内に顧客インタビューを何件実施し、主要KPIがどの水準を下回った場合に撤退するのかを、着手前に合意しておきます。これにより撤退は感情や政治ではなく、ルールに基づく合理的判断になります。
| 評価観点 | 従来の扱い | 撤退を成功に変える評価 |
|---|---|---|
| 事業成果 | 売上・利益の有無 | 仮説検証の網羅性と深さ |
| 撤退判断 | 減点・失敗 | 適切なタイミングなら加点 |
| 個人評価 | 能力不足の証明 | 学習資産を残した貢献 |
サイバーエージェントの事例が示すように、撤退基準を数値で明確化すると、撤退は人格評価から切り離されます。**「基準に達しなければ終わる」という前提があるからこそ、担当者は全力で挑戦でき、撤退後も次の挑戦に移行しやすくなります。** これは多産多死を前提とするイノベーションにおいて、極めて合理的な評価設計です。
また、撤退後に何が残ったのかを評価シートに明示的に記録することも重要です。未充足ニーズの発見、使えないと分かった技術、価格受容性の限界などは、組織にとって再利用可能な知的資産です。経済産業省のガイドラインでも、こうした無形資産の蓄積を人的資本の価値として捉える重要性が指摘されています。
- 撤退時に「学習レポート」を正式成果物として評価する
- 次のプロジェクト配属や昇進で加点要素として扱う
最後に重要なのは、撤退を決めた人を称賛する文化です。**続ける勇気だけでなく、やめる勇気を評価することが、組織全体の意思決定レベルを引き上げます。** 撤退の評価ルールは、新規事業を増やすための制度ではなく、学習速度を最大化し、次の勝ち筋に早く辿り着くための経営装置なのです。
明日から始める評価制度ハックのロードマップ
評価制度を一気に変えようとすると、必ず組織の抵抗に遭います。このロードマップの肝は「全社改革」ではなく「明日から現場で始められる最小単位のハック」にあります。新規事業の現場責任者が、自らの裁量範囲で評価の意味を書き換えていくことが出発点です。
まず着手すべきは、目標管理シートやOKRの定義変更です。売上や利益といった結果指標は、探索フェーズではコントロール不能です。そこで評価軸を行動と学習に寄せます。ハーバード・ビジネス・スクールの研究でも、不確実性の高い環境ではアウトカムよりプロセス指標の方が行動を促進することが示されています。
具体的には、仮説検証数、顧客インタビュー数、プロトタイプ作成回数といった指標を評価対象に組み込みます。成果が出ないことではなく、検証しなかったことがリスクだというメッセージを、評価項目そのものから発信します。
| 従来の評価軸 | ハック後の評価軸 | 行動への影響 |
|---|---|---|
| 売上達成率 | 仮説検証・学習量 | 挑戦と検証が加速する |
| ミスの少なさ | 賢い失敗の共有 | 隠蔽が減り知が蓄積される |
| 協調性 | 越境・巻き込み行動 | 異質な知が結合される |
次のステップは、新規事業チームを「評価の特区」として明確に位置づけることです。人事制度そのものを変えるのではなく、このチームだけは別ルールで評価するという合意を取りに行きます。経営層への説明では、人事制度改革ではなく実証実験であると位置づけるのが有効です。
同時に必須なのが、撤退時のキャリアセーフティネットです。サイバーエージェントのCAJJプログラムが示すように、撤退が制度上のルールとして定義されていれば、失敗は人格評価と切り離されます。事業が終わった後、どの部署に戻れるのか、評価はどう扱われるのかを事前に明文化します。
この合意がない限り、優秀な人材ほど参加しません。挑戦を促す評価制度は、失敗後の扱いまで含めて初めて機能します。
- 評価特区としての期間と範囲を限定して合意する
- 撤退時の配置・評価の扱いを事前に文書化する
最後のステップは、制度を文化に変えるための儀式設計です。制度だけでは人は動きません。リクルートのRingやソニーのSSAPでも共通しているのは、挑戦そのものが称賛される場が定期的に設けられている点です。
失敗共有会やレビューの場で、結果よりも学びを言語化し、最も示唆に富んだ挑戦を表彰します。経営トップが自身の失敗談を語ることも極めて効果的です。心理的安全性に関する大規模調査でも、上位者の態度が現場の主体性を左右することが示されています。
評価制度ハックのロードマップは、評価項目の書き換え、特区の公認、称賛の儀式化という三段階で進みます。どれも明日から着手でき、かつ組織の行動を確実に変えるレバーです。制度を嘆くのではなく、目の前の評価を一つずつ書き換えることが、新規事業を前に進める最短距離になります。
参考文献
- 株式会社PDCAの学校:イノベーション・ジレンマとは?成功企業が陥る罠と打破するための戦略
- EXPACT:イノベーションのジレンマとは何か―変化の時代における組織と個人の選択―
- PERSOLグループ:イノベーション人材とは?必要スキルと社内で育成する方法
- PR TIMES:【若手社員1793人調査】「職場の心理的安全性」と「社員の主体性発揮」に相関関係
- re:new vanes:ソニーの新規事業が育つSSAPとは?制度設計と成功の型を完全解説
- 経済産業省:イノベーションを生み出す企業経営と市場創出について
